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メサイア覚書 Vol.1 ---聖誕祭の儀礼

そもそもの話

年中行事の習い

私が「年中行事」好きなのは母の影響かもしれない。
母は、物心ついた時から外地にいた私に対して日本の文化習慣を少しでも理解してもらうために、正月や雛祭り、端午の節句など日本の年中行事のお飾りを家に飾っていた。
その母の目論みは予想を超えて私を育んだ。
「年中行事を知る」を通り越して儀式好きとなった私は、大学で天皇の即位式や大葬などの儀典を卒論に選ぼうとする域にまで達してしまったのだから笑

ところで我が家の四季折々のお飾り、唯一日本の行事とそぐわなかったのがクリスマスの飾りだったのは、私達家族がイギリス領の香港に住んでいたからだろう。
幼い頃はイブの夜に母がピアノを弾いて子供たちがクリスマスソングを歌いながらご馳走を食べ、翌朝クリスマスの朝には大きな靴下にほしいプレゼントが入っていたという習慣だった。

ところがある時からその歌を歌う習慣がなくなってしまったのは、私がクラシック音楽にハマり始め、クリスマスにゆかりのあるクラシックをその夕べにかけるよう要求したからだった。

ファースト・インパクト

そんなある年のクリスマス前、父が日本出張で買って帰ったLPレコードの中にヘンデルの「メサイア」があった。
カール・リヒターによる「メサイア」の抜粋盤(1965)だ。
父は既に私のクリスマスの儀典を心得ていたのである。

カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団 ヘンデル「メサイア」抜粋(1965)

リヒターらしい謹厳で荘重な序曲から始まるこの抜粋盤は厳粛なイエスの人生を思い浮かぶには十分なほど圧倒的な演奏で、私を大いに魅了させ、次のクリスマスには是非全曲をかけたいという思いを募らせた。
早速翌年暮れ、父にねだって全曲盤を買いに出かけたのだが生憎懇意にしていたレコードショップにはリヒター盤の在庫がなく、逆に店主に勧められたのが発売まもないホグウッド盤(1982)であった。

当時新進気鋭の古楽演奏家によるこのアルバム、一聴して驚いたのはそのあまりにも薄く軽い響きと歌われる言語が違うことだった。
というのも、実はドイツ語版だったリヒターの重厚な抜粋盤を聴き過ぎていたせいで、演奏内容と言葉のギャップに大きなカルチャーショックを受けたのである。

クリストファー・ホグウッド指揮 エンシェント室内管弦楽団 ヘンデル「メサイア」全曲盤(1982)

ところがホグウッド盤は往時の楽器と歌唱法そしてヘンデルゆかりの捨子養育院版という由緒ある楽譜(そしてもちろん英語という正当な言語!)を使っていることを知ると、古式の儀典好きの私の中でカルチャーショックは大きなパラダイムシフトを促して、すんなり受け入れてしまったのである。
本人もびっくりの「転向」笑

これが私の古楽器ルネッサンスであり、「メサイア」を知る目覚ましい起点となった。

メサイアを知る旅

嗚呼、イギリス領!

ホグウッド体験後、私が最初に実演を聴いたのは香港での演奏会だった。
確か香港室内管弦楽団のような名称の団体だったと記憶するが、何しろ40年以上前のことで当時記していた演奏会日誌も失われてしまい、演奏内容自体も朧げな思い出となってしまった。
しかし唯一覚えているのはハレルヤ・コーラスで聴衆皆んな当たり前のように起立していたことだった。
あの快活な前奏が始まると示し合わせたかのように立ち上がり、一緒に歌っている人もいたのを鮮明に覚えている。
当時イギリス領だった香港からすれば当たり前のことだったのだろうが、13歳ぐらいだった私には感動的なイベントに参加している感覚を覚え、忘れがたい体験だった。

アーノンクール・ショック

それから20数年「メサイア」とは縁のない音楽人生を歩んできたのだが、神様の一人が日本に降臨することでメサイアのセカンド・インパクトが起きるのである。
2006年アーノンクール26年ぶりの来日公演だ。

あの時の演目だった「メサイア」は古楽器にしては時に重々しく、時にロマン的、そして既成概念を覆すようなアイデアに満ちていた演奏で私は深い感動で打ちひしがれた。
そして、救世主の軌跡を辿るこのオラトリオの真価の一端を知ることができる特別な機会にもなった。

もはやこれは単なる年中行事に鳴る音楽ではないと悟った瞬間であったのだ。

2006年アーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス来日公演のパンフレット

この項、了
(次回、私なりのメサイアを紐解く旅が始まる)


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