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短編小説『ある通信会社クマ社員のふつうの1日』


午前


 ぼくがこの小さな星のき地にやってきて、4ヶ月になる。
 今日もおだやかなピアノが歌って、ぼくをゆり起こしに来る。いつものように窓のブラインドが開いて、光を部屋にさし入れる。
 この星で朝と夜を分けるものは、この音とブラインドの開け閉めだ。ここの太陽は、地球の太陽より、赤みがかって大きくて、光はちょっと弱々しい。そして、オレンジ色の気球がと中でのぼるのをあきらめたみたいに、じっと空の真上にはりついている。だから、ぼくらのいるき地は、いつまでも真昼。
 そんな太陽の、いつまでもねぼけているような光に、茶色いけむくじゃらの手が照らされる。ツメを引っかけないように、ぼくは注意深く毛布を取りあげた。
 会社から支給された毛の固い毛布だ。ぼくの毛皮の方がよっぽどやわらかいけど、不満を言っても始まらない。洗面所で口をゆすいで、毛並みを軽く整えてから、共同のダイニングへ行った。
 ダイニングでは、お酒のビンが転がって、同りょうの人間がテーブルにつっぷして寝ていた。
 ぼくはクマだ。だからお酒は飲まない。
 人間を起こさないように、食料庫の重いドアをそっと開ける。ぼくの分の今日の食事をまちがえないようによく確認して取り出して、出て行く前に、ドアの裏側に留めたカレンダーにチェックをつけた。ぼくのこの星での任期が終わるまで、ちょうど半分まで来た。
 ぼくのカレンダーのとなりには、人間の分のカレンダーも留めてある。人間の任期はクマより短い。だいたい2ヶ月くらい。同りょうのカレンダーは、今、3分の2がぬりつぶされている。
 ぼくらは、通信会社で働いている。こんな辺境の星にまで通信アンテナを設置しているのは、ぼくらの会社くらいだ。この業界ではけっこう大きな会社だし、待ぐうもいい。
 人間は異常のある時に対応したり、細かい報告書を書いて、週に一度、本部に送る事務仕事をする。クマのぼくは基本的に外での作業を担当している。毛皮のない人間は外での作業に不向きだし、不器用なクマの手は事務作業に不向きだから。
 たいていの作業はぼく一人でできる。ぼくは朝ごはんのクマ用クッキーを食べながら、再び人間のいるテーブルを横切って、食料庫と反対側のかべのくぎにかけてある作業用ベストを着た。非常用の酸素ボンベ、工具、救急キット、必要な物がそれぞれ専用のポケットにしまってある、かっこいいベストだ。会社のロゴが背中に入っていて、ぼくはけっこう気に入っている。毎朝、着るたびに、ちょっと得意な気分になる。
 身支度を終えて、外の方へ行くドアを開けると、もう一つ、がらんとした部屋がある。出てきたドアのダイアルを回して、しっかりとロックをかけると、それを合図にして、数分間、シューという音がする。この星にも空気があるけど、地球よりはうすいから、ここで調整している。ちょうど地球の、すごく高い山に登ったくらいの気圧らしい。この部屋でよく身体を慣らしてから、外にでる。
 ひんやりした空気が、ぼくの鼻をなでる。しめったどろの匂いのするこの空気も、ぼくはきらいじゃない。アンテナの機械の出す音がブーンと鳴る以外に、音を立てるものはない。
 10日くらい前までは、人間も一緒に朝の点検についてきて、この音がきらいだと言っていた。この星は息苦しくて、いやに静かで、頭の奥がしびれていたむみたいな音だけがして、具合が悪くなるらしい。ぼくはそんなふうに感じたことはなかったけど、クマと人間では感じられ方がちがうのかもしれない。
 新しい一日に足あとをつける。人間といる時は二足で歩くけど、一人きりの時は四足で歩く。そっちの方がずっと楽だから。鼻が地面に近づいて、かわいた砂の匂いがする。き地は、開けた砂地の真ん中に立っている。地平線に沿ってしっ地帯が広がり、地面をはう草がまばらに生えている。その草が、この星のゆいいつの原住民だった。
 ごく小さな星だから、地平線はぐるりと見わたせてしまう。まるで、オレンジ色の風船につられた丸いおぼんに乗せられて、まっ黒な宇宙をただよっているみたいだ。
 アンテナの取り付けられた柱を見上げる。たくさんのアンテナは一つ一つ、向きがちがって、空の方を見ている。からっぽの方向の先を、射ぬくように見つめている。
 アンテナに異常なし。柱の周りにも異常がないことを確認する。ケーブルは全てきちん配線されていて、断線はなし。
 今日もきちんと点検が終わったことを、本部に知らせるボタンを押す。柱の下のところにあるボタンを押すと、信号が送られて、ボタンの上にあるランプが赤く光る。本部がそれを確認すると、午後にランプが青くなる。ランプが青くなれば、この星と本部はきちんと連らくが取れている証こで、午後の仕事は、その青いランプの確認だ。青くならなかったら、き地にある非常用電話で本部に知らせなくてはいけない。ぼくのいる間に、そんなふうになったことは一度もないけど。
 朝の仕事を終えて、すっきりした気分でいると、アンテナの柱のかげに小さな花が咲いているのが目に入った。
 風のないこの星のしっ地帯をこえて、どうやってここまで来たんだろうと思ったけど、小さくて不かっ好な形の花はとにかく咲いていた。
 すき通った丸い花びらを地面近くに広げている。においはあまりしないけど、よくかげば、冷たくすんだ水のにおいがする。

 

 き地に戻ると、人間が起きてきていた。ダイニングが片付けられて、昼ごはんにしようとしているところだった。ぼくも食料庫から自分の分の昼ごはんを取ってきて、テーブルに置いた。
 人間と向かい合って、食事を始める。口は開かないまま、食事のふくろのふうを切る音だけが会話していた。
 曜日ごとに木の実や果物の種類は変わるけど、1ヶ月も経てば慣れてしまって、毎日同じものを食べさせられているような気分になる。人間用の食事の方がいろいろ変化があるようだけれど、うかない顔をしているところを見ると、ぼくとさして変わらない気持ちみたいだ。
 お皿をスプーンでかき混ぜながら、人間はため息をついた。
「こんなことで、お前は平気なのか?」
 人間がつぶやくように言ったけど、ぼくには意味がわからなかった。
「どういうこと?」
 人間はゆううつな顔を上げて、ぼくを見た後、なんでもない、とまたうつむいた。ぼくはちょっと困わくしたまま、木の実をかみくだいて飲みこんだ。
 質問に答えられなかったことが悪かったような気がして、なにか話さなくちゃいけないと思った。
「そういえば、今日、花を見たよ。花が咲いていた。アンテナの下に。めずらしいよね」
 人間は、ぼくの話に付き合うかどうか考えるような間をとってから、面どうそうに口を開いた。
「あの、みすぼらしいゆうれいみたいなモのことだろう。あれは花じゃない」
「そうなんだ。花じゃないんだね。きれいだったよ」
 人間は鼻を鳴らして、ぼくの背中側のかべにかざってある、草原の風景画を見上げた。つられて、ぼくもふり返ってその絵を見た。
 青緑の絵の具でぬられた草原に、赤色や黄色ににじんだ花が、風にそよぐように、ななめにかたむいている。飛ぶような筆使いでかかれた黒い馬の群れが、草原と空をつなぐように走っていて、空では青白く厚ぼったい雲がうず巻いている。
 人間の方に目をやると、もう絵を見るのはやめて、食事に戻っていた。
「クマにはわからないさ、クマには」
 つぶやくような小さい声だったけど、ぼくを責めているわけではなさそうだった。だけど、なんだかがっかりしているみたいで、ぼくはもう一度、悪いことをしたような気分になった。
 ぼくがわかりそこねたことがなんなのか、考えてみたけど、やっぱりわからなかった。
 クマのぼくにとって、人間の言葉というのは難しい。たくさんの単語があって、複雑にこみ入っている。それなのに、かん心の言いたいことのための言葉がひとつもなくて、困る。
 花が咲くときの、ふるえるやわらかなにおいとか、光の加減でまたたく花びらの移ろいとか、急き立てられるみたいに波打って伸びていくクキの先で、ちぎれそうにピンとしている葉っぱとか。そんなことを合わせて、感じる、そのことが、額ぶちの中の絵の具の汚れを表す言葉と同じに言い表せるなんて、そんなふうじゃないと思うんだけど、ぼくに人間の言葉は難しい。
 人間は早くも食事を終わらせて、ビールを開けて、テレビ電話をするつもりらしかった。テーブルを片付けて、代わりにモニターを置く。
 ぼくもジャマをしないように、あわてて食事を終わらせて、片付けをする。ゴミを捨てて戻ってくると、人間はくつろいだ様子で画面に笑いかけていた。画面ごしの人間も笑っているようだった。
「そんなところに飛ばされるなんて、不運だったね、大変だろう」
 気の毒そうな声が画面から話しかける。その声に彼は笑いながら首をふって、どうせあともう少しのしんぼうだから、と答えていた。さっきまで光をなくしていた目の色が、心なしか明るくなったようにみえた。
 白い光に照らされて笑う声を残して、ぼくは午後の見回りに出かけた。
 
 

午後


 アンテナのところまで行き、ランプを確認すると、青色に変わっていた。これで今日の仕事は、おしまい。
 ぼくはき地の外につり下げられたあらい目のブラシで背中をかくことにした。き地で必要なものを本部に聞かれた時に、ぼくがたのんで特別に取り付けてもらったものだ。クマは任期が長いから、そういったわがままも聞いてもらえる。
 ベストをぬいで足元に置いて、ブラシに背中を押し当てて身体をゆすると、ブラシの毛が背中をカリカリと引っかいて、ふれるようなふれないような感覚にうっとりする。昼ごはんも仕事も終わったこの時間が、一番好きだ。するべきことはこなされて、ぼくの前にきちんと並んで座っていて、ぼくはその整列をゆったりながめてうれしくなる。次の日の隊列がやってくる前に息を整えるしゅん間は、ぼくのためだけの時間。
 ブラシで体をかいていると、空気のぬけるようなき地のドアの開く音がした。人間がタバコをくわえて出てくる。午後にタバコを吸う習慣があるのは知っていたけど、今日は思いがけず、いつもより早かった。
 意外だったから、出てきた人間の方を見ていると、人間も、暗いほら穴のような目をぼくに向けた。ぼくがブラシに背中をすりつけているのがわかると、ゆがめた口から短く息を吐いて、目をそらした。
 この星は空気がうすくて、息苦しいともらしていたけど、タバコは簡単にやめられないみたいだった。火をつけたタバコのけむりが、真っ直ぐに太陽の方へ登っていく。深く吸いこんではき出したけむりも、ほとんどゆらめくことなく、毛糸のように空へ吸いこまれていく。空にういた大きな毛糸玉から、白い糸がたれ下がってきているようにも見えた。
 ぼくは思い出したように、予備電源の点検をしておこうと考えた。そのためには、人間の前を横切らなきゃいけなかったけど、四足で歩くのはなんだかいけない気がして、ぼくは休けいを早めに切り上げて、二足になったまま、のそのそと歩き出した。
 予備電源の装置は、四角いのっぺりした灰色の金属の箱だ。近づいて耳をそば立てると、ささやくように砂あらしのような音がする。とう明のカバーのかかった、いくつかボタンの並ぶ板をのぞきこむと、異常なしの青いランプがひっそり光っていた。ぼくの吐いた息がカバーにかかってくもり、青い光があの絵の花のようににじむ。
 ふり向くと、人間はタバコを吸い終わって、き地に中に入っていた。外はひんやり冷たくて、毛皮のない人間が長くいるには、つらいところだ。
 ぼくはほっとして、四足とも地面に置いた。身ぶるいをする。
 もうき地に帰ってもいいんだけど、いつもの習慣で、しっ地帯のほうへ足を伸ばす。自分の縄張りを見回るのが、クマの習性だから。
 しっ地に足をつけると、みずみずしくて気持ちがいい。人間がモだとかいう植物が、ポツポツと、毛の抜けかけたブラシみたいに生えている。色のないとう明な花をつけて、ごくたまに赤い実をつける。生き物のいないはずの場所で、なんでそんな実をつけているのか不思議だけど、ぼくは気にせず、鼻をつかって、実を探す。できるだけ鼻を低くして、空気がわずかに流れている場所をとらえる。いつまでもたそがれている地平線沿いに歩くと、それほど行かないうす暗がりに、清々しい赤い匂いを見つけた。今日は運のいい日だ。
 小さな実を歯を立ててかじると、舌の上でパツンと弾ける。ほんのり苦い土の味と、キュッと酸っぱい果実の味が混じって、飲みこんだのかもわからないうちに、口の中で消える。
 ほんの一しゅん、口の中で開いたあざやかな食感で、ぼくは小さい時のことを思い出した。
 子ぐまだった時、ぼくは学校に通っていた。都会の方ではめずらしくもないことらしいけど、ぼくの住んでいたあたりでは、学校に行くクマといえば、ぼくくらいだった。通い始めてすぐの頃には友達もいて、休み時間には、ぼくの毛をなでに近寄ってきた。小さい手がやってきて、背中やうでをクシャクシャとなでていくのがくすぐったくて、ぼくが笑うと、みんな笑った。みんながぼくのことをテディと呼んだ。それは、生きたクマの名前じゃなかったけど、別にそれでよかった。
 うまく行っていたはずのことが、気づかないうちに、うまく行かなくなる。その始まりがどこだったのか、ぼくにはわからなかったけど、クマのツメは子供達に危ないから、と、背の高い女のえらい先生がぼくらの教室にやってきたときには、もううまくいかなくなってたんだと思う。
 ぼくは職員室へ連れて行かれた。教室を出ていく背中では、何事もなかったかのように授業が続いて、その声がろう下にひびいていた。ぼくはなにか悪いことをしたんだろうかと、えらい先生を見上げたけど、先生は口をむすんで、前だけ見ていた。
「ほら見なさい。おそろしいツメ」
 職員室のイスに座らされると、先生はぼくの手を取って、とがめるような声で言った。先生は引き出しから大きなニッパーを出してきて、ぼくのツメを一本一本短く切った。たまに深く切り過ぎて、ぼくが痛いと鳴くと、ガマンしなさい、とピシャリと言った。
「みんなといっしょに、いたいでしょう」
 先生は重ねていった。
「お友達にケガをさせたら大変。あなたはクラスのみんなとちがって、クマなんだから、少しのガマンは当然ですよ」
 短くなったツメの足では、うまく地面をつかめなくなって、それまで人間と同じように二足で歩いていたぼくは、仕方なく四足で歩くようになった。それでも、ツルツルした床に、足裏の毛がすべって、よく顔からたおれるように転んだ。それを見るとみんな、ぼくを取り囲んで笑った。
「変なの! よく転ぶクマだなぁ」
 誰かが言うと、いっそう笑い声が高くなる。もう誰もぼくのことをテディとは呼ばなかった。
 しっ地帯を境目にして、昼と夜とが分かれている。き地のある側はかわいた昼間で、反対側はこおった夜中。いつまでも沈みきらない太陽と反対方向に歩くと、どろにだんだんとうすい氷がはるようになって、それをパリパリとふみしめて進んでいくと、氷は白く厚くなっていく。陽は落ちて、一面に白い氷のはった、夜の世界になる。
 ここまでくると、き地からの音は聞こえなくなって、耳がふさがれたみたいに静かだ。あのときの笑い声も遠い。ぼくのツメが氷をたたいて、カチカチとする音しか聞こえない。息を吸いこむと、鼻のおくがピリッとして、氷のにおいがする。ふつうの水より、チクチクするにおいだ。
 太陽がかくれて、どっちへ進んだらいいのか、心細くなる。真っ暗やみで、こごえてしまいそうになっても、足を止めないで、ふり返らずに歩く。
 もう学校に来たくないんです、と担任の先生に話しに行った放課後のことを思い出す。男の先生はおどろいたみたいに、なにかあったかい、とぼくに聞いた。みんながぼくを笑うから、と小さな声で答えると、それくらいのことで、と先生はため息をついた。クマだからって、甘えちゃいけないよ、と注意を受けて、ぼくは職員室を後にした。暗くなった夜道を、一人で歩いて帰った。
 真っ暗な夜の側をずっと歩いていくと、背にして歩いてきたはずの太陽が、今度は前に現れてくる。
 立ち止まると、暮れていくのかのぼっていくのか、地平線から顔を出しかけた太陽もぴたりと止まる。暗やみに黄色ががかった光をそっと広げる星に向かって、ぼくは一声、遠ぼえてみようかと思ったけど、それはクマじゃなくて、オオカミのやることだったと思い直して、開きかけた口を閉じた。
 昔、遠ぼえをするオオカミの本を読んだことがある。ある森で一番の大きな群れを率いるオオカミは、なにがあっても冷静で、頭が良くて、仲間をけして見捨てなかった。ライバルの群れを出しぬいて、かりの時は確実にえ物を追いつめた。白くてきれいなメスオオカミが寄りそって、ひときわ体の大きなオオカミがほえると、次々に仲間たちがほえ出す。
 なんのためにほえるのか、クマのぼくにはわからなかったけど、きっと大切なことだ、という気がした。
 オオカミの話は、たしか、増えすぎた仲間のために牧場の羊をうっかりおそったオオカミが、人間に見つかって、うち殺されて終わる。リーダーを失った群れは散り散りになって、森をさまよう。月の大きな夜に、メスオオカミのか細い声がひびくけど、答える声は聞こえない。
 縄張りは大切だ。近づきすぎないことが、一番大事なんだ、と思う。

 

 星を一周して、昼の側に戻ってきた。体が冷えてしまったから、急いでき地に戻る。
 ダイニングでは、人間が食事をしながら、またテレビ電話をしていた。じっと画面を見つめて、いつもよりちょっと低い声で話している。
 ぼくはベストをかべにかけて、夕ごはんを取りに行こうとした。
「クマがいるの? 私にもあいさつさせて!」
 高い女の人の声がテレビ電話から聞こえたから、ぼくは人間の方を見た。かれもぼくをチラッと見ると、すぐに視線を戻して、電話の向こうのかのじょに、かまわないよ、と言った。
「ちょっとこっちに来てくれないかな。かのじょが、君にあいさつしたいって」
 人間は、感じのいい笑顔をぼくに見せて言った。かれがそんなふうな顔をぼくに見せるのはめずらしかったし、どうせ食料庫にいくと中でもあったから、わかった、とぼくは返事をして、ダイニングテーブルの小さいモニターを人間と一緒にのぞきこんだ。
 明るいグリーンのかべ紙に、まぶしい光が差し込んでいる。画面の右側では、白いカーテンが風にふわふわとゆれている。カラフルな花がらのテーブルクロスの上には、青いマグカップが置いてあって、女の人がそこでひじをついて、ニコニコ笑っている。
「こんにちは」
 とぼくが声をかけると、女の人は悲鳴のような声をあげて、すごい、すごい、と喜んだ。
 どうしていいのかわからなくなって、となりの人間の方を見ると、かれはじっと画面から目をそらさないで、上の空でいるみたいに笑っていた。いつもの暗い夜みたいな表情が、今は明るくかがやいている。
「こんにちは。なにもない星に二人きりなんて、大変ね」
 女の人は、ぼくに同情するみたいに顔をしかめたけど、ぼくにはどういうことだかわからなかった。
「仕事はそんなに大変じゃないです。平気です」
 ぼくは思ったままを言ってみたけど、女の人は困ったような顔をした。
「クマだからさ。ぼくらとは違うんだよ」
 人間が軽く身を乗り出して、ぼくを退けるように押した。もう行っていいという合図だと思って、ぼくはなにも言わないで、席を離れて夕ごはんを取りに行く。
「クマと働いているなんて、危なくない?」
 去りがけに、ひそめた声が聞こえる。悪いやつじゃないよ、人間は言う。付き合うのにちょっとコツがいるだけ、と続ける声を、食料庫のドアで閉め出す。
 夕ごはんを取り上げるとき、まちがってツメを引っかけてしまって、ふくろが破けて、リンゴが床に散らばった。気をつけていないと、いろんなものがすぐこわれてしまう。
 ちょっとコツがいるんだ、とぼくは心の中で思った。
 リンゴをかかえて、ダイニングに戻ると、人間はすっかりぼくのことは忘れたように、楽しそうに笑っていた。画面に顔がつくんじゃないかと思うくらい、身を乗り出して、夢中になっている。
 ぼくはそれをながめながら、夕ごはんにする。
 昼間のつかれがやってきて、だんだんと人間の言葉を理解するのが難しくなってくる。人間もクマのように鳴いているみたいに聞こえる。目を見開いて、口を大きく開けて、おうおうと鳴く。たまに、手をたたいたり、太ももをかいたり。
 クマにはわからない鳴き声と身ぶりが、電波に乗ってやってきては画面に映ると、人間は熱中して、鳴き返す。食べかけのまま、放っておかれた人間の食事のお皿を見て、ぼくはその白いお皿にそっくりのアンテナを思い出した。
 クマにとって大事なものは、縄張りと食べ物だけど、人間はちょっとちがうみたいだ。ぼくらの会社はそのためにある。ただのブーンとなる機械以上の何かがあって、そのために、こんななにもないところにまでやってきて、アンテナを立てている。
 ぴったりの言葉は見つからないし、そもそも何かもわからないから、ねむくなってきて、ぼくはあくびをした。
 食べ終わったゴミを片付けて、電話で話しこんでいる人間を後にして、ぼくは部屋に帰ってねることにした。
 お風呂場で昼間の汚れをきれいに洗い落として、歯をみがく。体をよくふいて、かわかしてから、電気を消してベッドにもぐった。
 つかれがトロトロとまぶたにかぶさる。
 寝る前に、しっ地帯の草原の向こうから一匹のクマがやってくるところを想像してみた。ぼくは、そのクマに手をふる。人間みたいに、目を細めて、口角を上げて、笑ってみようとしたけど、前のキバがヌッと飛び出て、うまくいかない。思った通り、相手のクマは立ち止まると、まじまじとぼくをみて、不思議そうなクマの顔をすると、そっと背を向けて、いなくなった。
 やっぱり縄張りが大事だ。 
 ぼくは毛布を引っ張り上げて、目を閉じた。


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