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『春雷』(米津玄師『春雷』より)


『春雷』


 のどかな春の盛り、それは突然現れる。やにわにかき曇り、暗くなる空に、一瞬の光。轟音。花を愛でる賑やかな席の真ん中に、急に場違いな阿修羅が現れるようなこと。
 そんなふうなことが、実際に起きるとは信じがたいことだ。しかし、現実にはそんなこともあるものだよ。信じて欲しい。そのことを君に言いたくて。
 あの雷鳴が、どういうわけか耳から離れない。浮かれたざわめきの中を真っ直ぐに射抜いて、僕の胸を揺らしたあの音。ヒヤリと背中を撫でるくらいに混じり気なく、ごまかしなく刺し貫く痛み。
 あの衝撃の前では、僕はどうしようもなく腑抜けてしまう。どんな言葉も身振りもかなわないくらいに、ただ息を呑んで身をすくめているしかない。
 誰もあの鬼神に備えることはできない。何故って、それは人の姿をしているからだ。たおやかな黒髪にすべらかな白い肌を持って、そう、まるで君のような姿をして、人混みに紛れていて、ふと僕に微笑みかける。その実、まるで怒った龍のような激しさを秘めている。その龍の青い眼がとても恐ろしくて、僕はしばらく花見に行くのさえ躊躇ってしまった。
 龍はひとたび心を決めると、たちまち身をよじり、激情のままに地上を目指す。けして地上では生きられないというのに、たどり着くべき何かがそこにあると言わんばかりの苛烈さだ。僕は一途さのゆえんを知りたい。まるで焦げ付く寂しさにでも駆り立てられるように、ひりつく痛みを撒き散らし、悶絶する理由を。
 あの龍を表す言葉を、僕は知らない。ありきたりな言葉では、霞んでしまうくらいの衝撃だ。
 とんでもなく恐ろしいものだ。そしてまた、目を奪うほど美しい。
 まろやかに薄桃色に彩られる寝ぼけた空の中を、峻烈に引き裂いて、一直線にとどろいて落ちてくる。そのひたむきさに胸を打たれる。まどろむ春も、そのときばかりはハッとして、辺りの色と輪郭を際立たせるようだ。陽気がキリリと引き締まって、妙な新鮮さをもたらす。目覚めだした命の芽吹きに降りかかる冷たい雨は、雷光にチラチラと妖しく輝き、幻惑を誘う。こういったすべてが、ただ一瞬のうちに始まり、終わる。息つく間もなく。
 それは僕を不安にさせる。恐ろしいからというのじゃなく、その一瞬への盲目さにたじろいでしまう。胸が締め付けられる。虫眼鏡で陽光を集めるように、ただ一瞬の中にあらゆる命が投げ込まれ、燃えていくさまを見るようだ。その報われない向こう見ずを考えると、すこし憂鬱になる。
 高鳴る心臓がその存在をたしかに証明しているのに、姿を捉えようとすると、スッと消えてしまう。ただならぬ雰囲気にそぐわない、薄氷のような儚さを思うと、触れようと思うことすら怖くなる。そのうえ、あれほどの衝撃でさえ跡形も残させず、春はまた平気な顔で惰眠する。
 それは、元のままの春だ。さっきまで僕が好ましく感じていた、のどかで穏やかな春の姿だ。
 それなのに、僕はもはやそれを物足りなく感じてしまっている。春が悪いんじゃない。ただ春雷が、僕を変えてしまった。あの雷をどうにかして捕らえることができないかと、そんなことばかり考えてしまう。たとえ一瞬でも、ただあの一瞬さえ捕らえることができるなら、なんだってしてもかまわない気分だ。その変化に苦しめられている。こんなことなら、あの美しさすら、知らなければよかったと後悔するくらいに。
 君の顔をした春雷とどろく嵐に、悩まされている。

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