人間中心的・左翼的価値観
みなさんオリンピック観ていますか?
私は始まる前からあまり興味がなかったのですが、
たまたま家のTVが点いていて観た開会式の場面が、
MISIAの国歌独唱でした。
ご存知のあの虹色のドレスに
人間中心的、左翼的な匂いがぷんぷんして、
さらにオリンピックに興味がなくなってしまいました。
いやいや誤解しないでください。
私はLGBTへの偏見や差別には大反対です。
彼らは決して異常な人種ではありません。
人間ならば誰でもその性徴の過程で自分の性が揺らぐことがあります。
中にはその揺らぎが大き過ぎて本来の性に戻るのが困難になる方もいて、
そのような方は大きなハンディキャップを抱えているのだと思います。
その一方で聖書は性的倒錯の罪を強く糾弾しています。
(新約聖書「ローマ人の手紙」1章26,27節 他)
それを根拠に、思い込みの強い一部の保守的な福音派キリスト教徒たちは
彼らを徹底的に批判しています。
私も同じ保守的立場を取る福音派キリスト教徒ですが、
私はそのようなキリスト教徒にはに同意しません。
なぜならばLGBTの人たちが自分の性を神の意図に背いて用いているように、
私たちも神の意図の通りに自分の性を用いているわけではないからです。
(新約聖書「マタイの福音書」5章27,28節)
私も男ですから、綺麗な女性を見ればその様に心が動きます。
要するに私たちも彼らも同じ罪人なのです。
ですから、私たちには彼らを批判する資格は微塵もありません。
「では私があのMISIAの衣装を見て覚えた、
あのザワっとした嫌悪感はいったいなんだったのでしょうか。」
先にも書きましたように聖書は性的倒錯の罪を強く糾弾しています。
それはまぎれもなく「神の主権」によってなされているのです。
神は主権を持って人間を男と女に創られました。
その主権と秩序の中に人間の事情の入り込む余地はありません。
私はこう考えます。
私たちも彼らも、
自分たちそれぞれの抱えている事情はさておき、
神の主権と秩序の下に身を置く必要があるのです。
その神の主権と秩序に反抗する
「人間中心的・左翼的価値観」に対して、
私はあのとき、嫌悪感を覚えたのです。
私たちには自分の事を自分で決める自由があります。
私たちには信仰の自由があります。
私たちには言論の自由があります。
これらは私たちに保障された権利であり、
決して誰も、それを私たちから奪うことはできません。
でも、神によって決められた自分の性を自分で決める権利が、
私たちにはあるのでしょうか。
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