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アカシアの雨

『アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい』
一度聴いただけで忘れられなくなるような、なんともすごい詞だけれど。でも実は。長いこと、この「アカシアの雨」を上手く思い描くことができなかった。アカシアの花って、アカシアの雨って…。

が、ほんの数年前、我が家の裏の公園にある、ひときわ背の高い木に咲く花に気づいたとき、ようやく腑に落ちた。

思いきり顎をあげて眺める木の枝に、たわわに実るぶどうのような花房。それこそが、アカシアの花だった。その高みから、小さな花が散り落ちる。ぱらぱらと降ってくる。まさにそれが、「アカシアの雨」。

どこか投げやりに歌う西田佐知子のこの歌は、60年安保闘争の映像と重ねられ、当時もその後も何度もブラウン管に映された。そのせいで、なんとも虚無的なイメージがすり込まれてしまっていたけれど。時代ならではの空気が満ちていて、その一種独特の世界に引き込まれてもいたのだけど。

でも。今あらためて詞を読めば、どこか西欧の映画の一場面のようでもあり。

そんなことを思いながら歌の成り立ちを調べてみたら、やはり。

西田佐知子の専属プロデューサーである五十嵐泰弘は、出張先の名古屋の公園で白いコート姿の女性と男性が言い争いをしている場面に遭遇したという。なぜか忘れられずにいたその光景と、F・スコット・フィッツジェラルドの短篇小説『バビロン再訪』を原作にした映画『雨の朝巴里に死す』(1954年/エリザベス・テーラー主演)のストーリーを重ね合わせ、そのひらめきを作詞家の水木かおるに話し、生まれたのが、この「アカシアの雨が止むとき」。

アカシアの雨がやむとき
青空さして鳩がとぶ
むらさきの羽の色
それはベンチの片隅で
冷たくなったわたしのぬけがら
あの人を探して遙かに飛び立つ影よ

五十嵐氏がイメージしたのは、『男と女の哀愁に満ちたやり場のない気持ち、そして悲劇的な最期』を描いた歌だというけれど。

雨上がりのような澄んだ空の青さと、鳩の羽のむらさき。雨粒のようにきらめくアカシアの小さな白い花たち。

洋画のラストシーンのようなこの場面に、なぜか光を感じる。縛られていた心がようやく解かれ放たれていくような。救い。そして、再生。

空近くに咲くアカシアの花を知ったことで、わたしの胸の中の歌が、描きかえられたのだった。秘やかに。鮮やかに。


参照。





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