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社会実験は、ファッションのように、"着こなし"を見つめる

最近読んだこの2冊『はじめてのスピノザ』と『Web3とメタバースは人間を自由にするか』を合わせて読むと、リバタリアンではない、自由の所在が見えてくる。

新自由主義が牽引した強い者と弱い者の二極化は、目指すべき自由だったのか、考えさせられる。

スピノザ哲学を、簡単におさらいすると、デカルトは、強い個人の思想による正義と悪の対比した。対して、スピノザそもそも個人に善悪の区分はなく、組み合わせによってそれが善にも悪にもなることを提唱した。

ファッションで例えれば、身につけているものがブランド品か否かではなく、着こなしの問題といえる。

着こなしは、高価なものを身につけて、一部には手頃な衣服を纏うなどのメリハリ

モデルやスポンサーの関係で、全身ブランド品で統一することも時にはあってもいいし、毎日身に付けても、それはその人の人となりであるから、否定すべきものではない。

同じ服装であっても、対人関係やシチュエーションに応じて相応しい服装にも無礼にもなる。

年がら年中、誰といるときもスーツを着ていたら変わった人だと思われるかもしれないし、何かこだわりがある人だとも思える。

あくまで個人的見解でしかなく、その服装選びに善悪はない。

それくらいの寛容度で、まちづくりや社会実験を見つめ直すことはできないか。

失敗だけにとらわれず、チャレンジしたことを評価したり、もっとこうすれば良かったね!など前向きな議論のたたき台にしていきたい。

そんな取り組みを目指している。


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