【連載小説】 オレンジロード 1
橙色のセロファンに顔を近づけてその向こうを眺めるように、すべてのものがオレンジ色に染まっていた。空も大地も自転車も、そして僕の体も……。
赤味を帯びたオレンジ色の中で、彼女の小さな唇だけが動いている。耳を澄ませても、鈴なりの声は聞こえない。
橙色に染まった彼女は、しきりに手を伸ばしている。その手は細くて白かった。橙色の世界の中で、なぜ、その部分だけ白色なのか、僕は不思議な気持ちで見つめ続けた。
彼女のつぶらな唇が開き、小さな声が鼓膜を震わせる。
「真一君……」
甘くて優しい声だった。僕は胸を高鳴らせながら漂い続ける声を追う。
不意に、ドシドシと地面を踏み鳴らすような音が響いた。
彼女の細い体で、そんな激しい音を出せるだろうか。
僕は不思議に思いながら、すらりと伸びた彼女の足元に視線を流した。
彼女の両足は橙色の中に吸い込まれ、溶けるようにして消えている。
「真一、真一……」甲高い声が僕の名前を呼んでいる。
心臓が小さく弾け、僕は上体をガバッと勢いよく起こした。
どこにも橙色の世界はなかった。カーテンの隙間から洩れる朝陽が、散らかった部屋を照らしている。机の上には、教科書や参考書が震度三の地震に耐えられる程度に高く積まれ、壁に貼ってあるポスターの中で、可愛らしいアイドル女優が大きな瞳で僕を見つめていた。
寝不足の頭では、なかなか現実の世界に着陸できず、僕の思考は六畳の部屋の中を旋回し続けている。
枕元の目覚まし時計は、午前七時を指している。汗で湿ったシャツの背中の部分が、急速に冷めたくなっていく。十月の下旬にしては、少し寒い朝だ。
「真一」ベッドを揺らすような大声と共にドアが開いて、母が姿を現した。
髪の毛は、親鳥が放棄した巣のように四方に向かって飛び跳ね、目は零れんばかりに剥き出している。
そんな姿で仁王立ちされたら、初対面の人なら誰でも震え上がるだろう。
毎朝、その姿を見慣れた僕でさえ、あそこがキュッと縮まる。
スーパーのレジ打ちより、もっと相応しい仕事があると思うのは僕だけだろうか。
「真一、刑事さんが来ているの」
僕は右手で頭をポリポリと掻きながら、母の口から飛び出した「刑事」という言葉を反芻した。
まさか、父さんが逮捕されたのか。設計事務所の資金繰りが大変だと言っていたから、早まって犯罪に手を染めたのかもしれない。
「父さんが捕まったの?」
母は、さらに目を大きくして頭を横に振った。
「刑事さんは、真一に訊きたいことがあるんだって」
どうやら、逮捕されるのは、僕らしい……。
あの計画がばれたのだろうか。
寝ぼけた頭の中に逃走経路が浮かんだ。
窓から出れば、屋根伝いに家の外へ逃げられる。
「何をしているの、早く居間に降りて来なさい」
母は、息子の逃走の手助けをするつもりはないらしい。薄情なことである。
「兄ちゃん、銀行強盗でもしたのか」
ドアの隙間から、弟の健太がニョキリと顔を出した。
大きな目を丸くして、口を尖らせている。
中学一年生の男子にしてはませている。兄に対する敬意は微塵もない。
この母親にして、この子ありだ。いや、それを言うなら、僕も薄情になってしまう。それは断じてない、と言い切れないのは気の弱さのせいだろうか。
ベッドから飛び降りると、床のフローリングの冷たさが素足の裏から這い上がってきて、ますます心臓の鼓動を速くした。
スリッパに足を潜り込ませ、紺色のジャージを羽織る。
ドアにへばりついている健太の頭をぽかりと叩くと、弟は大げさに坊主頭を抱えながら頬を膨らませた。
いまさら逃げも隠れもできない。ここは、正面から刑事と対決するしかないだろう。階段を一段降りるごとに、踏面が軋み、まるで絞首台に向かっているような錯覚を覚える。
僕は、絞首台を見たことなんてないのだけれれど……。
「オレンジロード2」へ続きます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?