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【連載小説】 オレンジロード 4

父は、その自転車にヤスリを丹念に掛けて錆を落とし、ハンドルのテープを新品の物と取り換え、最後にチェーンに油を注いだ。
父の汗で磨かれた自転車は、それなりに悪くなかった。

どうしても新しいものが欲しい、というわけではなかった。それに、現在の高見沢家の家計は決して楽ではないから、無駄な出費は避けたほうがいい。だから、父の行いはそこまでは良かったのだ。問題はその後だった。

父は勝手に自転車を橙色のペンキで塗ってしまったのだ。
素人が刷毛で塗ったものだから、塗り厚にはかなりのむらができ、それに焼付け塗装をしたわけでもないから、光沢も帯びていなかった。

一番嫌だったのは、何と言ってもその色だ。
黒か白、シルバーなら問題はなかった。青か黄色でも大丈夫だったし、赤でも我慢できた。

しかし、橙色では話が違う。自分の頭の中のどこを探してもそんな色は見つからなかった。橙色の自転車は、幼い女の子が乗るような、かわいらしい感じがして、男子高校生には無縁な代物でしかない。

「こんな色じゃ乗れないよ」
僕は恨み言を父にぶつけた。
「この色には、思い出がある。幸福を呼ぶ橙色の自転車だ」
父は胸を張り、無邪気に笑った。

男という生き物は、いくつになってもロマンチストなのだろう。
日々、生活に追われる母の口からは一生聞くことができないような言葉だ。
それに、橙色の自転車が幸福を呼ぶなんて、聞いたことはない。幸福を呼ぶのは黄色いハンカチと決まっている。

その自転車が僕の愛車になってから一年以上が経つ。
人間には慣れるという偉大な能力があるらしく、今ではたいして恥ずかしさを感じない。
ときたま、すれ違う女子学生に物珍しそうにじろじろと眺められると、少しだけ頬が熱くなるけれど。

「盗まれたのは運が悪かったね」男が言った。
「自転車は返してもらえますか?」
「それは、まだ無理かな。調べなければいけないことがあるから」
男の瞳には鋭い光が残っていた。
まだ、僕に対する容疑は晴れていないらしい。

罪を犯した息子の情状酌量を願うかのように、両親は男の背中に向かって深々と頭を下げて見送った。
予期せぬ訪問者で、朝食を食べる時間がなくなってしまった。今からでは、走っても学校には間に合いそうもない。

「私の自転車を使いなさい」
母が僕に鍵を手渡した。
できれば、ママチャリは避けたい。学校の男友達でママチャリに乗っている奴なんて一人もいない。

しかし、そんなことを悩んでいる暇はなかった。
無遅刻、無欠席の記録を途切れさせるわけにはいかない。
大急ぎで玄関から飛び出し、黄色のママチャリの鍵を外して、かごに鞄を放り込んでからサドルに跨った。

顔を上げると、斜め向かいの小早川家の大きな家の玄関から、男子高生が姿を現した。
お屋敷のような家が建ってから半年、学校が違うから口をきいたことはないし、道で会ったからといって挨拶をする仲でもない。
相手から漂う敵意を感じては、それも仕方ないだろう。

小早川は口元を歪めながらニヤリと笑っている。
ママチャリを笑っているのか、それとも僕自身を笑っているのか……。
むっとして睨み返した。小早川は何もなかったように背を向けて、シルバーのサイクリング車を走らせた。

高級な自転車は、押収された橙色の自転車や、母のママチャリとは比較にならない。経済力の差は自転車にも表れる。
思わずハンドルを握る両手に力が入った。
同じ方角だったら、ママチャリで追い抜いてやったのに……。

いかんいかん、始業のチャイムが鳴る時間が迫っている。
小さな二十インチのタイヤでは、いつもの倍以上の力が必要だろう。
でも、大丈夫。中学時代、野球部で鍛えた脚には自信がある。今は、帰宅部で少しは鈍ってしまったが。

あと四日……。
僕の頭の中に、あの計画が浮かび上がった。
計画を遂行するためには、何としても橙色の自転車を取り戻さなければならない。こんなチャンス、二度とは訪れない。
僕の人生が懸かっているのだ。

僕はペダルを思いっきり踏み込んだ。
ママチャリは、鈍い金属音を立てながら学校に向かって走り出した。

オレンジロード5へ続きます。

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