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【連載小説】 オレンジロード 6

引戸の開くガラガラという音が響いて、教師の橋本が入ってきた。
五十を過ぎても太る体質は変わらないらしく、腹だけ見れば十両の力士に引けをとらない。
跳ねるように前から二番目の自分の席に戻る佐藤の後ろ姿を眺めながら、僕は彼から渡されたメモを机の中に押し込んだ。

起立、礼の後、橋本が低い声を上げながら僕を見た。
「高見沢、ちょっと来てくれないか」
クラスの全員の視線が、再び僕の顔に絡み付いた。

どうやら、『重要参考人』の件は、職員室でも話題を独占したらしい。
どんな厳しい尋問を受けようと、犯人は僕ではないのだから何も恐れる必要はないのだが、小さな憤りと情けなさは心の柔らかい部分を容赦なく侵食する。
無実の容疑者は、みんな、こんな気持ちになるのだろうか……。

橋本の大きな背中を見ながら廊下へ出た。
後ろ手でドアを閉めると、ざわめきが厚いドアを通して伝わってきた。
伊部の歪んだ笑い顔が脳裏をよぎる。
スリーアウトチェンジといった感じだった。

職員室では年代物の応接セットに、本間教頭と橋本に対じする形で座った。
大柄な橋本に対して、本間の体は小さくて、体格だけ見れば、二人は親子に見えなくもない。
本間は品定めをするように、神経質そうな目で僕の顔をじろりと見ている。

「家に警察が来たそうだな」橋本は、僕の顔を見据えたまま訊いた。
「はい」口から出た言葉は息ばかり多くて、声になっていない。
「電車妨害の件ですね?」本間の口調は丁寧だ。

僕は、小さく顎を引き、今朝の刑事とのやりとりを説明した。
「君と事件とは、本当に関係がないんですね?」
本間が、僕の瞳を覗き込むように顔を傾けた。
「関係なんてありません」
本間は小さく頷き返したが、その目は疑惑に満ちている。
どんな理由であれ、他人から疑われるというのは気持ちのいいものではない。

その後、二言三言話してから、橋本は「高見沢、教室に戻っていいぞ」と野太い声で言った。
橋本の表情に疑っている様子はない。いつもの、ぶっきらぼうで、それでいて人のよい顔があるだけだ。
少しだけ救われた気持ちになり、僕は二人に向かって一礼をし、職員室を後にした。

教室に戻ると、すでに物理の授業が始まっていた。黒板にぶつかるチョークの音が響いている。
新田という若い男性教師は、僕に興味を示さず、淡々と授業を続けた。

僕は突き刺さってくる生徒たち視線を無視して、自分の席に着いた。
机の奥にそっと手を忍ばせ、中指と人差し指で二つの紙切れを摘み出す。
佐藤の手書きのメモには、四件の電車運行妨害事件の場所と日時が書いてあった。僕と違って、佐藤は毎朝、新聞に目を通すらしい。

四件の事件は、すべて夕方から夜にかけて起きた。場所はどれもJR総武線の各駅の線路だ。
秋葉原から千葉へ向かう総武線には、黄色い各駅電車と紺色の快速電車がある。二つは別々の線路を走っているから、片方が止まっても、もう一方の電車は動いている。

当然のごとく、快速が停まらない駅では、各駅が動かなくなると困った状況になる。駅によっては近くに私鉄の京成線があるが、それでもJRの駅からはかなりの距離があり、乗り換えるのは一苦労だ。

事件は家から最寄りの駅を起点として、上りに一つ行った駅と、下りに二つ先の駅で、それぞれ一度起きている。
テレビで報道されているように、愉快犯の悪戯だろうか。それとも、電車に恨みのある人物か……。
いずれにせよ、いじめをする奴らと同様、犯人の心の中はスカスカなのだ。

物理の初回の授業のとき、新田先生は「心の隙間には、質量があると思うか?」と質問した。
誰も答えなかった。いや、答えられなかった。
結局、新田は答えも教えてくれなかった。

新田が、なぜ、そんな質問をしたのか、わからないが、僕の心の中には、奇妙な共鳴音が鳴り響いた。
人の心には隙間がある。その埋め方を間違えてはいけない……。

僕は黒板を一瞥してから、もう一度、手許にある用紙に視線を落とした。
黒いマジックで書いてある「謀」の字は、インクが滲んで不恰好な楕円に見える。伊部が書いた字ではないだろう……。
あいつが自分の手を汚すはずがない。それに、そんな難しい漢字は書けない。

伊部の家も小早川家に負けないくらい裕福だと聞いている。
経済的に満たされていることと、心が満たされることはまったくの別物なのだろう。

オレンジロード7へ続きます。


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