【連載小説】 オレンジロード 2
母に続いて居間に入ると、ソファに座っていた中年男が顔を上げ、僕に向かって微笑んだ。
このやや太り気味の男が刑事なのか……。
肉が緩んだ顎には二重線が浮かび、両目は厚いまぶたで押し潰されたように細くなっている。
こういう、一見たいしたことがなさそうな奴に限って手強い、といのうは探偵小説でのお約束事だ。
テーブルを挟んで茶色いソファが向かい合い、手前には父が、奥に男が腰を下ろしている。
「真一、ここへ座りなさい」
父が、やたらと丁重な、よそ行きの声を上げた。
父の髪は寝癖であらぬ方角に跳ねている。無精髭が青白い顔に目立つ。慌てて着替えたのか、黒いカーデガンのボタンが一段ずれていた。
ネクタイをきつく締めて通っていた建設会社を退職し、個人の建築設計事務所を開業してから三年、身なりはすっかり自由人だ。
僕は、うつむきながら父の隣に腰を下ろした。
「朝早くから、すまないね」男が小さく頭を下げた。
ニヤリと笑った顔は、まったく、すまなそうではない。
父が深々と上半身を折り曲げたのに釣られて、僕は膝頭が額にくっつくほどに頭を下げた。
相手の目的がわからない状況では、下手に出るのが賢明だろう。真面目な少年を演じるのが一番だ。
「高見沢真一君だね」
「はい」僕は背筋を伸ばして答えた。
「高校に通っているそうだね」
「精花高校の二年生です」
目を逸らしたら負ける気がして、僕は男の顔を真っ直ぐ見ながら応えた。
中年男は顔中の余分な肉を揺すりながら笑っている。
これがち「手」なんだ。よく、刑事ドラマで容疑者を油断させるために、人懐っこく振舞ったり、カツ丼を食べさせたりするデカがいる。
騙されはしない……。
「君の自転車のことで、訊きたいことがあってね」
「自転車……」不意を突かれ、僕はその言葉を繰り返した。
敵の目的は、あの計画を訊き出すことではなかったのか……。
「お父さんに話を伺ったのだけれど、君の自転車は夕べから行方不明になっているそうだね」
顔を向けると、父は夜逃げを企んでいるような深刻な眼差しで頷いた。
僕の自転車は、昨晩、家の駐車スペースから盗まれた。近所を探し回ったが、見つけ出すことはできなかった。
まだ、警察には届けていなかったはずなのに……。
「自転車が見つかったんですか」
「ああ……でも、少し問題があってね」
男は、たるみを確かめるように右手で首元を摩った。
母は、男の後ろにあるダイニングテーブルの下からの椅子を引き出し、そこに腰を下ろして、心配そうに眉間に皺を刻んでいる。
その隣には、黒い瞳をキラキラと輝かせた健太の姿があった。
「線路の上に放置されていたんだ」
心臓が嫌な音を出して鼓動を打った。背中に滲んだ汗がゆっくりと流れ落ちていく。出かけた言葉は喉に絡みつき、うまく声にならない。
「昨晩の事件は知っているかな。この近くの線路の上に自転車が転がっていて、危うく電車が衝突しかけたんだ」
「それが僕の自転車なんですか?」
口から飛び出た唾がテーブルの上に落ちたが、それを気にしている余裕はなかった。
男は、目の前に着地した唾には気づいた様子もなく、大きく頷いた。
「運転手がすぐに発見したから、衝突は避けられたんだ。一連の事件と関係があるかもしれないから話しを訊きたくてね」
ここ数ヶ月の間に、線路上に自転車を放置する事件が、JR総武線沿いの駅で三件続いて起きていた。どれも、電車のスピードが落ちているときで、急停車することで大事には至らなかったが、列車のダイヤに混乱が生じた。
最初の事件が起きたとき、下りの電車に乗っていた父は、一時間以上足止めを食らったと、ぼやいていた。
「君の自転車が盗まれたのは何時頃かな?」
「夕方の七時前後だと思います」
昨日、学校から帰ったのが午後六時半過ぎ、近所のコンビニに買い物に行こうと七時半前に玄関から外へ出たときにはすでに自転車はなくなっていた。
「その後、どうしたの?」
「近所を回って、自転車を探しました」
心臓の鼓動が速くなっていく。
男は、僕を疑っている。線路に自転車を放置した犯人として……。
オレンジロード3へ続きます。
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