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【連載小説】 オレンジロード 5

苦しい息のまま、三階の教室に向かって階段を駆け上がった。
息を切らしながら足早に廊下を進んでいると、隣のクラスの前に立つ、一人の女子生徒が視界に飛び込んできた。

心臓がドクンと跳ね上がる。白川流菜だ。
すらりとした体を僕に向け、潤んだような瞳で見つめている。
小さな赤い唇が、何かを言いたそうに僅かに動いた。

その続きを阻むように現れた女子生徒は、つかつかと流菜に近づくと、耳元に顔を寄せて話し始めた。流菜の友達らしい。
僕は、視界の隅に流菜の姿を捉えたまま足早に彼女たちの前を通り過ぎた。

流菜の視線が僕を追い駆けてきたように感じたのは気のせいだろうか。
しかし、いまの僕には立ち止まって声をかける勇気もなければ、そんな時間もない。

二年五組のドアを開けると、生徒の視線が一斉に絡み付いてきた。
品定めを終えた鑑定士のように、生徒たちは視線を逸らすと、ひそひそ話しを始めた。

いつもと違う、妙な静けさに、僕の心臓は嫌な音を出して鼓動を打つ。
顔に火照りを感じながら平静を装って、窓側の席に近づいた。
自分の席にそっと腰を下ろしたところで、始業のチャイムが鳴った。
とりあえずセーフだが、クラスの雰囲気はツーアウトという感じだ。

五組は四十三名、全員が男子で、いわゆる「だんクラ」と呼ばれるものだ。
精花高校は、五年前に男子校から共学に変わったばかりで、直ぐに女子生徒の数が増えるはずもなく、二年生の総生徒数三百五十名のうち女子生徒は僅か三十八名、約一割。
貴重な女子生徒は、一組から四組までに集められ、その他の五組から八組までは「だんクラ」だ。

鞄から教科書を取り出して机の中に入れようとすると、見覚えのない先客が入っていた。
教科書を机の上に置き、その物体を机の奥から引きずり出す。
一枚の紙切れが現われた。ノートを乱暴に破ったらしく、左端はふぞろいにギザギザになっている。

そこには、こう記してあった。
『列車運行の妨害犯人は、精花高校二年五組の謀男子生徒!』
黒いマジックでなぶり書きしてあり、その横には電車妨害事件の切抜きが貼り付けてある。今朝の新聞記事らしい。

その切り抜きは、長方形に切り取ってあるため、他の記事の一部も含まれている。紙切れをしわくちゃに丸めたい欲求を抑えながら、震える指先で丁寧に四つに折り、机の奥に押し込んだ。
朝っぱらから、ぶしつけに注がれた視線の理由はこれだったらしい……。

廊下側の席に陣取った数人の男子生徒が、顔を歪めながら笑っている。
伊部晶とその仲間たちだ。いつも、奴を中心に五人程度が群れている。
伊部は、髪を手で撫でながら口元に不敵な笑いを浮かべていた。
いつも、髪の毛の手入れに余念がなく、眉毛も綺麗に手入れされている。

今までも、伊部たちには何度も嫌がらせを受けた。人に話せば『いじめ』と言われる類のものかもしれないが、それほど悲惨な状況とは思っていない。
嫌がらせ自体、エロ本が机の中に入っていたり、運動靴の片方が行方不明になるくらいで、我慢できないものではなかった。要は気の持ちようだ。

「大変だったんでしょ?」小柄な佐藤直行が静かに近寄ってきた。
「たいしたことないよ」
作り笑いを浮かべようとしたが、顔の右半分しか笑えない。

佐藤は、子供のようにふっくらとした頬をふくらませている。つるつるの肌をしていて、とても高校生には見えない。下手をしたら中学生を通り越して小学生だ。
伊部たちにからは、「小学生料金で電車に乗っているんだろ」と、からかわれている。

他の生徒たちは、伊部のことを気にして、近づいて来ない。
誰だって、いざこざに巻き込まれるのは嫌だろう。

「でも、警察も酷いよね。線路に自転車が置かれていただけで、重要参考人にするなんて」
『重要参考人』とは、初耳だった。

そこで、僕は首を傾げた。
新聞の切抜きといい、佐藤の言葉といい、なぜ僕と事件の関係を知っているのだろう……。
教壇のほうに目をやると、椅子に座る河合伸郎の後ろ姿があった。全神経を僕たちの会話に向けているのは、ぴんと伸びた背筋が物語っている。

河合は、僕の家のご近所さんだ。刑事を見送るとき、母が大きな声で「刑事さん、よろしくお願いします」と言っていたから、それを聞きつけたのかもしれない。
それに、昨晩、自転車を探しているときに、河合には会っている。
自然と目許に力が入り、気付いたときには河合の背中を睨み付けていた。

「君の容疑が晴らそうと思って、ノートに書き出してみたんだ」
佐藤は、一枚の用紙を僕に手渡した。
丸みを帯びた小さな字がびっしりと並んでいる。ノートの端は綺麗にハサミで切ってあった。

佐藤のぽっちゃりとした手からメモを受け取りながら、伊部たちの様子を盗み見た。伊部は、不機嫌そうに口許を歪めている。

(まずいな……)
僕は口の中で小さく舌打ちをした。
佐藤をかばったあの日から、伊部たちの嫌がらせの対象は僕に代わった。
こんな風に僕に接していては、また佐藤がいじめられてしまう。
合図しようと佐藤を軽く睨んだが、僕の意図には気づかないのか、佐藤は机の横から離れようとしない。
困ったものである……。

オレンジロード6へ続きます。


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