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タイトル公募断篇小説「夕立そうめん」

先日、断篇小説のタイトルとして使える「夏の終わりに食べたくなる存在しない食べ物」をTwitter上で公募しました。
その結果、たくさんの素敵なタイトルが寄せられました。そのなかで、とくにシンプルでピンときた「夕立そうめん」を使わせていただき、小説を書いてみようと思います。では以下が本編となります。どうぞ。
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 夕立そうめん 

 2003年の夏の終わりのことを久志は強烈に記憶している。その日、久志は恋人の彩夏とドライブをしたのだった。ラジオではどこかのお笑い芸人が「なんでだろう?」と誰にともなく問いかけていた。DJがおかしそうに笑っていたが、久志も彩夏もクスリともしていなかった。
「チャンネル、変えようか?」
「べつにいい」
 その少し前から久志は彩夏とうまく話せなくなっていた。高校の終わりに付き合い始め、浪人生活を経て、大学四年間ずっと一緒に過ごしてきた二人だが、彩夏が広告代理店に就職を決めたあたりから少しずつ歯車が狂い始めていた。

 久志は暢気者なので、一年はテキトーにバイトしながら余暇で旅行でもして、将来のことはのんびり2年くらいかけて決めればいいと思って就職しなかったのだが、その方針自体がたぶん彩夏は気に入らなかったのだろう。

 いつか二人で南国で暮らそう、いつか二人で雑誌でも作ろう、いつか二人で小さな託児所もやろう、いつか……大学時代に夜な夜な計画とも言えぬ計画を語り合った記憶は、もうどちらの口からもふたたび持ち出されることはない。それはもうとっくにおとぎ話の世界の話になったのだ。

 そのドライブの前日、彩夏は「会社の近くに移ろうと思うんだよね、いまのアパートからだと通いにくいし」と言い出した。いまのアパートは久志の名義で、まだ契約はあと2年残っている。
 ──ていうかじつはもう賃貸契約してきたんだ。
 これは別れを切り出されたようなものだろうか。しかしそのように問うと、彩夏は馬鹿ねちがうわよ、と答えたし、好きな男ができたのかと問えばそれもやっぱり馬鹿ねちがうわよ、と答えた。

 それでも、その決断がある一つの終わりを意味しているのは間違いなかった。
 ラジオではまだお笑い芸人が歌っていた。なんでだろう? なんでだろう? なんでだなんでだろう? 音だけでも、青いジャージと赤いジャージの強烈な彼らの姿がすぐに目蓋に思い浮かぶ。それにしてもなかなかの歌唱力だな、なんてことをぼんやり考える。
 かすかに鼻を動かす。知らない匂い。気のせいだろうか。彩夏の匂いじゃないような気がした。知っている彩夏の匂いのなかに、べつの何かが混じっている。いやこれは考え過ぎか。
「そういえば昨夜、夜中の二時頃、なんか電話してた?」
 寝ぼけながらトイレに行こうとした時、キッチンに立って煙草を吸っていた彩夏が慌ててケータイを伏せたような気がしたのだ。
 ずっと気になっていたことを、ラジオの「なんでだろう?」に背中を押されたように、口にしてしまった。
「ん? なにそれ、キモいよ久志」
 キモいと言われたら、それ以上は何も言わない。これは就職した頃から彼女の口から頻出されるようになった言葉。たぶんキモかったのだろう、と久志は理解する。ふつうの人間は夜中の二時頃に恋人がどこかに電話をしている気配を察しても気にしないのだろう。そうだそうに違いない。それを疑うというのはきっとキモいことなのだ。
 でも謝るまではしなかった。久志はただちょっと笑った。それ以上どうすればいいのかわからなかった。謎は残ったままだし、彩夏から代わりの説明があるわけでもない。疑惑はキモいというレッテルで完全に閉じ込められたのだ。先月観た映画では刑事がレインボーブリッジを封鎖できず困っていたが、彩夏はキモいの一言で疑惑を封鎖できた。あの刑事より優秀かもしれない。

 そこに唐突に、夕立が降ってきた。本当に唐突だったので、思わずハンドルが一瞬揺れて、反対車線に入り込みそうになった。
「ねえちょっと車止めて」
 彩夏に言われて、久志は急いで車を道路脇に止めた。そこはちょうど海の近くで、夕立は無数の針となって海と大地との区別なく襲い掛かり、この世の常識さえも一瞬で変えてしまおうと企んでいるみたいだった。

 何より、空が相変わらず明るいままなのが妙な感じだった。まるで直前の自分の微笑みたいな夕立だな、と久志は思った。さっき自分は、内面でとんでもないことが起こっているのに、笑っていたのだ。
 彩夏が「バケツよ、バケツ、トランクになかった?」という。
「あったけど、それがどうした?」
「とってきて」
「やだよ、濡れる」
「それくらい何よ。キモい」
 またキモい、か。ふと久志はその言葉を彩夏によく使っているべつの人物を想像する。その人物はどういうタイミングでその言葉を使うのだろう? 

 彩夏はあなたには頼まない、というと突然ドアを開けて走って後ろへ回りトランクを開けた。そしてバケツを取り出すと、助手席に戻ってきた。
 シャツはすでにびしょ濡れで、黒い下着の線が透けて見えていた。よれよれだからもう捨てるわと話していた下着を、今日は着ているらしい。

 その視線に気づくと、彩夏はじろりとにらんで「キモい、見ないで」と言った。
 久志は慌てて視線を逸らした。それからキモい、という言葉について考えた。この言葉は、誰かから教えられたものではないのかも知れない。彼女自身が、ある異物と出会うことで、自分の「若者」としてのポジションを明確にするべく使い始めた言葉なのか。問題は、その異物と彩夏の関係性だ。
 
  彼女はバケツを窓の外に出して夕立を盛大にキャッチしはじめた。久志はそんなことをする彩夏を見るのは初めてだったので、いささか面食らった。いよいよ頭がおかしくなったのか、ともちょっと思った。

 やがて、夕立がやんだ。彼女のバケツには雨水がたっぷり入っていた。だが、それはただの雨水ではないようだった。何か、細い透明な線が無数に渦巻いている。まるで細すぎるところてんか葛きりみたいに見える。
「お家に帰ったらさ、茹でて、食べよう? 私の引っ越し祝い」
「……それ、何?」
「なにって、夕立そうめん。こないだ会社の人に教えてもらったの」
 会社の人という響きを、カイシャノヒトと片仮名にしたり、かいしゃのひと、とひらがなにしたりしてみた。どう転がしたって、その得体の知れない存在は、いま目の前のバケツのなかに蠢いている物体同様、謎のままだった。

 けれど、やがて久志は頷くと、ふたたび車を走らせた。
「それ、茹でたあと、冷やすの?」
「冷やしたければね」
「……ふうん」
 ちょうどラジオでは例の芸人の出番が終わり、誰かのくだらないバラードが流れていた。くだらない、と評するのは久志が単にもっぱらスガシカオやキリンジのようなアーティストの曲ばかりを好み、その当時のJ-POPのバラードをほとんど認めていなかったせいもある。とにかくお涙ちょうだいの、恋愛のさなかにでもいなければ耳に砂糖がつまりそうな類の音楽に思えた。
 
 彩夏はもう久志の返事なんか聞いていないみたいに、久志にとっては初めて耳にするそのバラードを口ずさみ始めた。
 助手席の彩夏は、バケツのなかに箸を入れ、その茹でられる前の透明な「夕立そうめん」とやらを、夢み心地に眺めていた。その透明な麺が、陽光を通して輝いた。茹でたら、そいつは何色に変わるのだろう、と久志は思った。
 
 夕立そうめんに限らず、聞きたいことは山ほどあった。
 けれど、すべてはもう終わったことなのだ、という気がした。たぶん彩夏は久志のもとを去っていく。数日のちには、もう会うこともなくなるかもしれない。そのことを思うと、頭がパニックになりそうだった。怒りをまき散らしたり、突然アクセルを踏んでガードレールに突っ込んでやりたくもなった。
 
 でも、一方でこう思っていた。
 何はともあれ──自分というものが、こんなどす黒い感情でいっぱいになっている状態はもうたくさんだ。

 たとえ彩夏がひどい嘘をついているのだとしても、とにかくその嘘は彩夏の問題であって、久志の問題ではない。

 いや、そんな言い方はフェアじゃないか、と久志は思い直す。もしかしたら、それは久志の問題でもあるかも知れない。彩夏は自分に真実を話すつもりもなく、自分もまた彩夏を信じきれていない時点で相手と向き合っているとは言えない。

 たしかなことは、夕立はもう去ったし、その前も今も、空の色に変化はないということだ。
「めんつゆ、冷蔵庫にあったっけ」
「ないかも。久志つくってよ、椎茸だしのやつ。あれ、好きだよ」
「ああ、うん、おけ」
 それからまた彩夏はバラードをくちずさんだ。久志はもう何も考えなかった。お笑い芸人の「なんでだろう?」はもう心から消えた。いま考えているのは、鍋に水を張り、火にかけている間にねぎを切ったり生姜をすったりといった手順についてだった。

 同時並行で隣のコンロでしいたけだしの麺つゆを作ることを考えると、けっこうな重労働になりそうだ。しかし、それは幸せなことだった。これからその作業が終わるまで、ひとまず二人は夕立そうめんを食べる共同体として共にあり、そのことだけに意識を集中してさえいればいいのだから。

「ねぎくらい、私も切るよ」
「いや、テレビでも見ててくれればいいよ。それか引っ越しの準備でも」
 ふん、と彩夏が鼻でわらった。
 それから小さく、とても小さく消え入りそうな声で言った。
「キモい」
 その小さな小さな、今まででいちばん愛おしい「キモい」を、久志は生涯忘れずにいようと思った。

END

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末筆ながら、はじめていらっしゃった方、はじめまして、小説家の森晶麿と申します。
9月17日に新刊『黒猫と歩む白日のラビリンス』が出ます。上記掌編からご興味をおもちいただけましたらアマゾンでもお近くの書店さんでもご予約のほどよろしくお願い致します。
 

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