スタンド使いは惹かれ合う?むしろ見えない?

発達障害者は発達障害者と仲良くなりやすい傾向を、うちの家庭では「スタンド使いは惹かれ合う」と呼んでいます。
私はASD傾向の強いひとが好きで(言語感覚が近くてすごく喋りやすい)、夫はADHD傾向のひとと仲良くなりがち(わ!っと盛り上がる)。

典型的な特性がもりもりなのに、周りの人たちからは「発達…障害……?」みたいなリアクションを受けがちなのは何でだったんだろと振り返って
思うところがありました。

私の数少ない友達は、揃いも揃って強烈な個性派揃いです。最近は過剰適応型の友達もできましたが(仲良くなるのに五年かかった) いわゆる定型さんは殆どいません。
だいたい「理系」「美術系」「バンドマン」のどれかまたは重複の民しかいないので、変わっているのが普通でした。

診断を取るというのは「診断を取ることが困りごとへのアプローチに有効な場合」「二次障害が出ている場合」「自己理解を発達方向から進めたい場合」かなと思うので、彼ら彼女らが診断に興味を持たないことが不思議ではないのですが

スタンド使いは惹かれ合うが、誰の中にも定型的視点がないため、逆に分からないんじゃないかなって…

友情としては全くなにも問題はないし
むしろ定型的視点で検分されることなく楽しくお付き合いできてニューロダイバーハッピーなだけなのですが
私には1つだけ懸念があります。


「子供がどうなんだか全然分からない」。

私の「普通」は「定型発達」と同義ではないため、娘が普通なんだか療育が必要なんだか全然分からない。

通園するなかで異常に疲弊する様子や、その回復手段を見ていると「おや、お仲間ですかね」と思ったりもしますが、
定型文化への理解がなさすぎて、彼女が感じている齟齬を擦り合わせることが出来ません。

就学にあたって不安です。学校は定型文化を煮詰めて法にした城じゃないですか。
たとえば学級運営に著しい支障となるタイプの特性であれば 周りからも促されますし、療育へのアクセスがしやすいんですが
ただただ疲れ切ってしまう、普通にするのに他の子の何倍もエネルギーを使って過ごしている子は、親がよほど上手く掬わない限り、こぼれ落ちてしまいます。
家庭でできる工夫もあるはずですが、親である私自身がどうにもなっていないので、助ける側に回れていない問題もあります。

薄々そんな気はしていないのですが
私に診断がつきそうなことで、「家庭の外からも視点が必要」という状況がはっきりしてきました。

…無理に合わせていく必要があるんかいなとか、多数派の暴力やんけとか思わないでもないのですが、自分の関わる人間や身を置く場所を自分で決められるようになるまでは
どうか酷く傷ついたりせずに育って欲しいと願っています。

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