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朝活ドキュメンタリー⑤ぶっ壊したい

気軽に始めた朝活ドキュメンタリーのことについて、どんどん深みにはまっています。なんだかもう抜け出せない感じ。自分でも先が読めない展開に。「きっとここに着地するだろう」という予想が・・。

朝、ベランダに洗濯を干しに上がってくる母の足音。その足音が怖かった。

続きです。


怖さの理由は「叱られるから」だと思っていた。いや、確かにそうだった。朝から母に怒られながら起きるのなんて気分が悪い。1日のスタートが嫌な気分なんて。

当時の私は、「気分の良し悪しが未来を創る」なんて思ってもいなかった。だけど、気分の悪さを感じながら1日が始まるより、気分良く爽やかに1日が始まるほうがいいに決まってる。みんなそうだと思う。

だけど、あの頃の自分にアクセスしてみると、どうやら「怒られる」ことだけが怖さの理由ではなかったように感じた。もっと別の、もっと奥底にあるもの。その何かが「怖さ」を引き出している感じがしたのだ。


なんだろう?それって。「それ」を感じようとすると集中力が途切れた。すぐに別のことが思い浮かび気持ちが逸れた。んんん・・・。分からないときは放っておくことが一番。でも、気になる。

ぼーっとしながら1日を過ごした。そして、ふと浮かんだ「ある場面」。その「ある場面」とは、私がかつてコーチングを受けていた場面だった。テーブルをはさみ、向かいにコーチである女性が座っている。雑居ビルの一室。細長い直角三角形のような間取りの小さなワンルームだった。その人から受けるセッションは何度目かだった。だから、特に緊張もせず、私は思っていることを思いつくままに話していた。

そして、私はこんなことを話した。「とにかくぶっ壊したいんです!」お、恐ろしい発言・・だと思わないで(笑)。なぜなら、ぶっ壊したかったもの、それは私自身だったのだから。

で、昨日初めて気づいた。その時の「ぶっ壊したい」と思った時のエネルギー。それが、階段を上がってくる母の足音を怖いと感じていた時のエネルギーと同じだということに。「え?なんで?なんでここが繋がるの???」

衝撃


そう、私は何もかもぶっ壊したかったんだ。母の足音を怖く感じ始めたのは、なんと二十歳をすぎてからだったけど、その頃にはもう自分の中に抱えきれない何かがあったんだと思う。それは、ずっと小さい頃から抱えてきた何かで、押し殺してきた何かだった。ん?押し殺してきた?抱えてきた?

いや、そうじゃない。そんなことじゃなかったのかも!「押し殺す」とか「抱えてきた」と表すと、なんだか自分が被害者のように感じる。でも、そうじゃない。そんなことじゃなくって。あ、そうか。私、自分で閉めた扉を開けたかったんだ!!!

けれど、私はずっと抑圧された被害者だと思っていたから、そんなことも分からなかった。自己否定が強くなったことも、内向的で人見知りが激しく、人との間にすぐに壁を作って守りにはいろうとする性格も、そうならざるを得なかった理由があったからだ。そして、それは私のせいじゃないって思おうとしていた。思いたかった。

でも、本当はそんな自分さえもぶっ壊したかったんだと思う。「こんな自分でなくては安全に生きていけない」と思い込んだ自分に、「そうじゃなくても大丈夫!」って教えたかったのかもしれない。



もう、自分でも分からなくなっているのだけど、そもそも連日このことを書いているきっかけは「朝活」のことだった。朝起きて、そして「早く起きたのだからなにかしなければいけない」と思っている自分の中に「観念」があると思った。そして思い出したのが、母の足音だった。

何かしなくてはいけない、そうしなくては母から叱られるという無意識の思い込みがあった。だけど、私を監視し続けていたのは母ではなく、私自身。今でいう自粛警察みたいな人が私の頭の中にも住んでいて、そして「何もしない私」をいつも見張っている。

その実態のないワタシが、本当は一番怖かったのだ。



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