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夏休み

夏休みの最後の日、小学生の間中、私は毎年泣いた。

6年生になったとき、さすがに今年は泣かないよね、と母と話していたのに、その夏も結局泣いた。

小学生の私は、想像力の成長スピードが言語の成長を大きく上回っていて、自分の言語が自分の脳内をうまく表現してくれないことにいつももどかしさを感じていた。


結局私が泣く理由をうまく説明できたのは、それからもう何年も経って、泣かなくなってからいくつもの夏が過ぎた頃だった。

「こんなに楽しかったのに、全部、全部、終わっちゃった」

ただそう言って私は泣いていたが、なぜかそれ以外の言葉は持たなくて、概念をうまく説明できなかった。
こんなにも悲しくて切ないのに。

何らか理論的なことを述べるときだけは、滔々と秩序だった理屈が出てくるのに、感情を伴う現象になると、とたんに言葉にできないイメージのベールが、言葉たちを一斉に隠してしまう。

母は何でも察してくれるので、私が単に「夏休みが終わって、大嫌いな学校に行かなければならなくなる」などという単純な理由ではなく、何か深い理由に突き動かされて涙を流しているのだろうということは、何となく感じ取ってくれたそうだ。

それでも、はっきりとその正体を言語化できない私を前に、母もうまいなぐさめの言葉を持たなかった。


結局私は、楽しかったことが全て思い出になることに、切なくて耐えられなかったのだった。

想像力がやたらと逞しい私は、いつの日か、子ども時代が遠い過去になったとき、こうして父や母、弟と過ごした夏休みを、もう戻らないものして恋しく思うだろうということまで想像してしまっていた。

夏休みが終わるということは、当然「夏休み中でなくなる」ということで、その夏休みで起きたことはもう「今」とは切り離され、全てが思い出になるということ。

楽しかったのに、全部終わっちゃった、という言葉は、自分ではあまりに不十分だと思っていたけれど、ある意味言い当て妙だったのかもな、と今となっては思う。

何か楽しいことがあっても、それが終わると思い出になってしまう。
夏休みに限らず、それは人生においていつもそうだ。

でも、夏休みは私にとって「楽しい」が詰まった宝箱のようなもので、だからこそ、この「思い出になってしまう」という感情が、夏休みの終わりには特別にかき立てられてしまうものだったのだろう。

今は、私がもう当時の母くらいの年齢だ。しかも、夏休みが特別忙しくなる仕事をしているので、正直夏休みが始まるあのワクワク感は、リアルなものではないし、終わるときにはちょっとホッとしてしまう。

それでも、愛おしかった夏の記憶は、細胞にも染み渡っているらしい。

「全てが思い出になる」という事実はあんなに怖かったのに、忙しい日々にふと夏の匂いを感じるとき、切なかった夏の終わりの涙さえ、優しい思い出として心に寄り添ってくれる。

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