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日本人って何

 外国人研修生が怖い、というニュースを見た。日本語をしゃべれない人たちにうろうろされたら、それだけで身構えてしまうし、まして何かしてくるかもしれない。小さい子供もたくさんいるのに。ということだった。おだやかな近所が乱される、と。

 こんなに的を射ない議論はあるだろうか。外国人というだけで、日本語が少し話せないというだけで犯罪者扱いである。たしかにコミュニケーションに支障は生じるかもしれない。今は知らない人たちかもしれない。それでもその怖さの原因は、彼らを知らないことにあるのではないか。

 未知のものにある程度の恐怖心を抱くのは自然である。だけど、彼らも同じ人間である。日本人かどうか、というのはその人を判断する基準をミリも左右しなくて良いのではないか。

 こんなことは日ごろから腑に落ちないことの代表格だったが、そこでこのnoteに出会った。

 村本大輔さんはもともと、政治的な皮肉とどうでもいい面白いことをごったにするスタンダップコメディが大好きな自分にはぐさっときていた。笑いに政治的意見をとりいれる可能性は無限大、という話はまた別の機会に。

 ここには、朝鮮学校の無償化を求めている話、そしてそれに対する朝鮮学校の先生とのやり取りを通し、彼が日本人という定義について疑問を投げかけている。

 これだ!!

 と思った。ずっともやもやしていること。

 彼の経験のなかで、あの人は中国人だから、韓国人だから、近づかないほうが良いと言われたという。

 父がアメリカ、母が日本出身の大阪なおみが大活躍するなか、Netflixでフィーバー中のこんまりは、純粋な日本人がアメリカで人気になった!とされる。

 韓国の血が入っているというだけで、批判がばかみたいに強まったりする。

 こんなことを通して村本さんは、日本人とは何なのか皮肉な疑問をなげかけた。

 国籍が日本。血筋が日本。考え方が日本。育った文化が日本。今いるのが日本。

 日本の文化とか歴史とかはあっても、日本人のちゃんとした定義なんて誰にもわからないんじゃないか。それぐらい曖昧だし、そのふわふわのままでいいんじゃないか。

 同じ日本人として、他の日本人がなにか感心するようなことをやっていると不思議と誇りに思ったり、嬉しくなったりする。それは悪いことじゃない。あくまでポジティブにとどまるのであれば。

 少しスケールは大きくなるが、文明が発達しまくり今や地球のいろんなところの人たちとコミュニケーションがとれ、彼らは行き来している。

 だったらもう、何人だなんて考えはとっぱらってしまえばいい。

 そう思うけど、実際こういう考えに基づいて今までは世界は動いていたんだし、すぐには難しいのはわかる。だけど、せめてなに人だから、という議論をいざこざの原因ではなくことはできるんじゃないか。

というか、いい加減そうするべきである。もとよりみんな同じ人間なんだから、小さな境を超えて、もっとごっちゃになればいい。そのほうがきっと楽しいから。

 と、村本大輔さんのnoteは、こんなことを考えさせてくれた。ぜひみなさんにも読んで、皮肉をエンジョイしてほしい。

 

 

 

 

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