見出し画像

「書けない」ときは日常との対比をつくってみる


旅行に出かけると無性に本が読みたくなるのはなぜだろう。

くねくねとしたヘアピンカーブを曲がりながら、振り落とされまいとハードカバーの本を必死に掴んで覗き込む。

小説は再生するのになんの装置もいらない。もちろんバッテリーが切れることもない。ただページを捲る動作さえできれば永遠に時間を潰すことができる。とてもお手軽なエンタメだ。


読もう読もうと思いながらも本棚の上で埃をかぶっていた本を4冊鞄に詰めて横浜ナンバーの車に乗り込んで群馬までやって来た。


車の中で心置きなく本を読んだり眠ったりできるのは父の運転ならではだ、と以前恋人の運転する車に乗車5分で寝落ちして怒られた私は思う。

「最後の家族旅行は沖縄だったね」と母に言われて、そういえばあれはいつのことだったかしらと記憶を辿ると、なんと6年前のことだった。

学生ならまだしも、社会人になってから家族4人が揃って旅行に出掛ける機会はなかなかない。

いつしか優先すべき事項は家族から友だちへ、学業へ、そして仕事へと移り変わり、年末年始の帰省以外で話すこともほとんどなくなっていってしまう。

それは「巣立ち」として正しい形なのかもしれないけれど、一方でコンクリートジャングルである程度の社会人経験を積んでUターンしてきた私を迎え入れる母はどこか嬉しそうに見えた。(勘違いだったら辛いが)

赤黄色に彩られた榛名山の山頂は裸んぼの木のシルエットが重なって、ポヤポヤと髪の毛が生えたての赤ちゃんみたいだ。

紅葉が見事な場所で降りて、枯れた落ち葉を踏み鳴らしながらしばし歩くフリをするも、湖畔に吹く風に身震いして慌てて車に戻り、また小説の続きを読む。

チビのころから車移動ばかりだったので、車の中で活字を楽しんでもまったく気分が悪くならないのは本の虫におあつらえ向きの性質だ。

目を落とせば小説が私を非日常へと誘い、顔を上げればそこには見慣れぬ非日常が広がっている、というのはとても奇妙でおもしろい。

自宅で小説を読みおわると、いつも夢が覚めたような心地がするのだが、旅先で読む小説はいつまでも夢が覚めずにふわふわとするからやめられない。

そうして非日常のダブルパンチを浴びたあとは、無性に字が書きたくなる。本を閉じ、今度は小さなスマホに指をすべらせる。

そうして出てくる文章は、なぜかいつもちょっぴり詩的だ。理由はわからない。普段なら「わかりやすさ」を重視して書くのだが、旅に出ると詩人のような心持ちになり、非日常に酔いしれた文章になってしまう。奇妙なことに。

世の中に失恋の唄が多いのは、恋愛沙汰こそがもっとも激しく感情を揺り動かすものであり、かくなるうえは命を捨てて心中をはかるほど何にも代えられないものだからだと思っている。

失恋をすると、人は唄を書きたくなるのだ。

それを自分に置き換えてみると、「強制的に非日常をつくる」ことこそが、自分の創作意欲を掻き立てるスイッチなのだと感じる。

旅をしながら文を綴る人は多い。それは、新しいものを目に映すと、自分の心がそれに呼応してぶわわ、と思い出や感情が溢れ出てくるからだと思う。あるいは、一人旅の場合は綴ることこそが唯一の対話であるのかもしれない。

そうして1泊2日の旅行で観光をしながら本を4冊読み終え、こうして謎の文章も出来上がった。

結局何が言いたいかというと、創作をするには刺激が必要で、失恋せずともお手軽に心を揺さぶるには旅に出ることが手っ取り早いということ。

そんなに大それたものでなくてもいい。たまには見慣れた自分の部屋を離れてホテルに泊まるだけでも、新しい発見がある。

そうしてまた書く気力を取り戻して、日常へと戻っていく。意図的に日常との対比をつくろう。旅があるからこそ、日常は輝くのだ。

処女作『書く習慣』の4刷が決定しました。


誰でもなんでもネットで自由に自分の思いを吐露できる時代。

「なにを書いたらいいのかわからない」「人に見せるのが怖い」という人に向けて、「書くことが好きになる」本を書きました。

書くことへのハードルをうんと下げて、皆さんの一歩を後押しします。

ぜひお手に取っていただけたら嬉しいです!


サポートは牛乳ぷりん貯金しましゅ