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“インプット”という言葉はもったいない

“インプット”という言葉はいつ生まれたのだろうかと思う。

気付いたらみんな当たり前のように使っていたし、わたしもたまに使うことがあるけれど、先日改めて思った。

わたしはこの言葉があまり好きじゃないかもしれない。

「noteのネタを探すコツはありますか?」

と聞かれて、

「イベントに参加したり、本を読んだり、映画やテレビを観たり、ごはんを食べたり、友だちと会って会話したりすること」

と答えた。すると、

「つまり、インプットが大事ということですね!」

と言われた。

反射的に、合ってるけど違うんですよ、と答えた。

「インプット」と聞いて思い浮かべるものはなんだろう。

わたしは、大半の人はビジネス書か、有益な講義・セミナーだと思っている。

なぜなら、おそらく「インプット」という言葉をみんながよく聞くのがそういう場だからだ。

インプットしよう。良質なインプットを。アウトプット前提のインプットを。インプット。

そんな場で聞く「インプット」は、難しい言葉のように響く。

わたしの思う日常でネタを拾うコツは、もっと身近だ。空を見上げて綺麗だと思うとか、友だちの話になるほど、と感心したりだとか。

「インプット」という言葉はそのハードルをがっつり上げる。

何も、分厚い本を読んだりすることだけがインプットじゃないのに。

本当に些細なことがインプットなのに。

わたしが「嫌い」と言ったところでこの言葉がなくなるわけじゃないけど、そうした口触りがよく、さまざまな意味を含有した言葉というのは、便利なようで危険だなと思った。

何かを感じて、何か感想を抱いたのなら、それがインプット。

それを、もっともっとハードルを下げて感じてほしい。

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