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私のこと 東京藝大→ニューヨーク→ブルガリアまで

自己紹介をします。

私は現在、ブルガリアのプロブディフという街で、音楽家の夫と暮らしています。歌手になりたいという夢を抱いて東京へ、その後ニューヨークへ渡りましたが、自分を見失っていくばかりの日々でした。そんな中、ある出会いをきっかけに、少しずつ自分を取り戻していきました。現在は、自然体なブルガリア人たちと、毎日が喜劇のような暮らしを楽しんでいます。

東京藝大時代

東京藝術大学に合格したときは、ようやく音楽の道が本格的に始まるんだ!という喜びや希望に溢れていました。ようやくスタート地点に立てたんだ!と。けれども現実は、思い描いていた理想とはほど遠く、大学時代は真っ暗闇の中にいるようでした。心は晴れず、いつもストレスを抱え、目に見えない何かに抑圧されているような感覚がありました。体調を崩すことも多く、心身共にエネルギーが弱っていました。

今から考えると、その大きな理由は『競争』でした。常に周りの目を気にし、周りと自分を比べ、自分を大きく見せようともがいていました。自分をただいじめているだけの、虚しい努力ばかりの日々でした。このまま日本に居てはダメだ、この先の希望が見えない、そう思い始めました。

周りの同級生たちは卒業後に向けて、藝大の大学院への受験や、オペラ研修所のオーディションなどの準備を始める中、私は思い切って、ニューヨーク留学することを早々に決めました。

ニューヨークに留学すると決めたとき、ふたたび自分の中にパワーが戻ってくるような感覚になったのを覚えています。けれども当時の私は、意気揚々と希望を抱いて、ニューヨーク留学を決めたわけではありませんでした。一番の理由は『逃避』でした。ただただ日本に居たくなかったのです。

留学を理由に今の現状から逃げようとしている。そんな気持ちになることもありましたが、ニューヨークでの暮らしに思いを馳せるだけで、心が穏やかになる自分がいました。当時はまだ、心に沿う選択ができるような自分ではありませんでしたが、この時ばかりは、心で納得できることには逆らえませんでした。

マネス音楽院時代

ニューヨークでは、語学学校に通いながら、レッスンを受け、大学院の受験へ向けて1年間準備をしました。入念な準備の甲斐もあって、マネス音楽院というマンハッタンの難関音楽大学の受験に合格しました。ここからまた新たな環境で音楽が学べる!音楽家への道に一歩近づける!そんな希望に溢れていました。

けれども蓋を開けてみたら、そこは藝大のときと変わらず戦場でした。藝大の時は心理戦ような状態に近く、お互い意識し合いながらも、意識しているということを悟られないように振る舞っているような、今から考えると陰湿な空気感がありました。

一方マネス音楽院は、実戦場でした。残念ながらそこは学ぶ場ではありませんでした。実力がなければ、学ぶチャンスすら与えられないのです。入学直後に行われるオーディションで、学内コンサートやオペラ出演者が決定します。オーディションに受かれば、コンサートやオペラ公演などの本番を経験することができます。また、学内外問わず有名な先生たちのマスタークラスを受けることができるのも、このオーディションの合格者のみでした。オーディションに受からなければ、オペラ公演に参加することも、有名な歌手や先生たちの指導を受けることもできません。

大学院という場所は、プロの音楽家になるべく経験を積むための場所なんだ、ということが分かりました。つまり、大学院に入学する時点で、プロレベルの実力を要するということだったのです。歌が上手になりたい、そのための方法を知りたい、と思って留学したにも関わらず、それが叶うことはなく、実際にはもっと激しい戦場へ投げ出されてしまいました。

2年間の大学院生活で、私はオーディションに受かることなく、オペラ公演やコンサートに出演する機会が与えられることはありませんでした。同級生たちが、授業終わりに、リハーサルに出かけていくのを横目に、心が締め付けられるような、肩身が狭い思いをしていたのを覚えています。居心地は悪く、自分がちっぽけで価値のない人間に感じていました。当時は同じ大学院で学んでいる同級生たちが、別の世界の人々のように思えました。

大学卒業を控えた卒業試験当日の朝、私はついに、歌うどころか喋ることもできなくなりました。失声症です。ストレスが原因でした。どれだけ喋ろうとしても口からは息が漏れるだけ。声にならない。けれども不思議なことに、そんな状況にも関わらず、私は安堵感を覚えたのでした。『あー、もう歌わなくていいんだ。』と。張り詰めた緊張が、フワーッと溶けていくような。全てのことから解放された安心感がありました。

声の回復を待って追試を受け、無事に大学院を卒業することはできましたが、『私はこのまま歌を続けていけるのだろうか。』そんな思いの方が強くなっていきました。

大学を卒業すると、周りの友人たちは一斉にコンクールやオペラ歌劇場などのオーディションを受け始めました。次々と輝かしい結果を出して、歌劇場などでデビューを果たしていく友人たちに対して、『私は何をやってるんだろう?』という虚しさや焦りを感じつつ、どんどん歌えなくなっていく自分を惨めに感じていました。

『変わらなければ!』そう思った私は、あらたに発声を学び直すべく先生を探し始めました。有名音楽大学の名だたる教授陣や、メトロポリタン歌劇場の指揮者やコレペティのレッスンを受けてみたり、チャンスを見つけては講習会やワークショップなどにも参加しました。けれども、この人だ!という先生には出会えませんでした。

マネス音楽院を卒業して1年半くらい経ったとき、『フロリダに良い先生がいるよ。』とクラリネット奏者の友人に言われました。そのときの私は何かに導かれるように、流れに身を任せているような感覚でした。「どうなってもいいや。だってこれ以上悪くなることはないから。」そんな気持ちでフロリダに行くことを決めました。

フランコ先生との出会い

初めてのレッスンで声を出す前、フランコに、『君について教えて!』と言われました。私は、『私は自分がどういう人間なのかまだ分かりません。』と答えました。それくらい、私は私のことが分からなかったのです。フランコは、私の返答に対して『そうだね。音楽家にとって本当の自分を見つけていくことは大事なことだね。』と言いました。

レッスンが始まってすぐに、『全然違う!今まで私が学んでたものは一体何だったんだろう?私が求めていたものはコレだ!』とすぐにわかりました。それは、『体全体が、魂が喜んでいる!』という初めての感覚でした。そして、大きな癒しと共に救われた思いがしました。まるで、海で溺れていたところを助け出されたような感覚でした。

フランコの見せてくれる世界は、音楽が生き生きと輝いていました。音楽ってこんなに生き物みたいにエネルギーに溢れてるものなんだ!とその熱量にもすごくワクワクしたのを覚えています。そして、今までにない深いレベルで音楽を味わえるようになっていきました。

フランコのレッスンは、毎回が発見の連続でした。
『学ぶってこういうことだったんだな。』
『音楽をするってこういうことだったんだな。』
『音楽ってなんて素晴らしいんだろう。』と。
そしてようやく、『自分を生きている』と感じることができるようになりました。

フランコの下で歌を学ぶことは、本当の自分に出会い、あらたな自分の可能性に気づき、自分の中に力を取り戻していくようでもありました。一度知ってしまうとそれでしかなくなる。知らなかった今までの私と、知った今の私は、全然違う私。驚きと感動によって、自分が大きく変わっていくのがわかりました。

そんな中一番の難関は、自分の成長を妨げるように現れる、今までのクセや思考、感情でした。今まで自分が積み上げてきてしまった経験による恐れや不安は、フラッシュバックのように現れ続けました。それがまるで、自分で自分の成長を止めているように感じることもありました。

今までやってきたことを全部忘れて一掃し、新しい自分に生まれ変わるまでには、本当に長い時間がかかりました。新しい自分だと思っていた自分こそが、本来の私だったんだなというのは、今になると分かることです。

その後、フランコ監修の下でリサイタルを行ったり、数々のオペラ公演にも出演できるまでになりました。音楽家としての自信を持てるようになったのは、フランコと初めて出会ってから、7〜8年経ってからのことでした。

現在、そして夫から学んでいること

フランコを紹介してくれたクラリネット奏者の友人こそが、私の夫、イリヤン・イリエヴ(ILIAN ILIEV)です。夫は素晴らしい音楽家であり、体の使い方のマスターです。

フランコの下で学び、ある程度歌えるようになった後に、そこからさらに音楽家としてのステージを引き上げてくれたのは夫です。今でも毎日のように、夫からは多くの刺激を受け、気づかされたり、驚かされたりの連続です。

結婚を機に2015年、ニューヨークからブルガリアへ移住しました。そこでの暮らしの中で、音楽が自然と共にあるということを実感するようになりました。生活の中に音楽が溶け込んでいて、演奏する側にも聴く側にも、あらたまったり、かしこまったりする感じがないのはとても新鮮でした。本番前でも、音楽家たちの間に嫌な緊張感などは一切なく、『え?これから本番よね?』と思うほど、みんなが自然体でリラックスしていました。

自然体な人々に囲まれた環境で音楽をする、ということを経験するうちに、いかに心と体が繋がっているか、ということを理解できるようにもなりました。フランコから学んだことも、ブルガリアに来てより理解が深まったように思います。全ての真実は深いところで繋がっていました。

ブルガリアでの暮らしを通じて、自然体であること、人が自然に機能していることが、音楽をする上で欠かせないことなんだということをあらためて実感し、『身体を正しく使うことで機能する』というコンセプトをもっと広めていきたい、と思うようになりました。そこで、2019年からIMAミュージックアカデミーを開講し、夫と共に指導を始めました。変わっていきたい音楽家たちに、希望の光を見せられるような指導者でありたい、と思っています。

私の歩んできた経験が、多くの音楽家たちの役に立てたら、とても嬉しく思います。

最後まで読んで下さってありがとうございました。

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