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【創作大賞2024応募作】神々の憂い #4

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四章
 
 七月二十日、御朱印帳に指定された日。

 運良くバイトのシフトが入っていなかった灯は、明治森神社めいじのもりじんじゃを訪れていた。

 ジリジリと肌を焦がすように、強い日差しが容赦なく照りつける中、厳かな鳥居をくぐると、参道脇に生い茂る木々が日差しを遮り、足を踏み入れるごとに、ひんやりとした涼しさに包まれる。

 鳥居の外の灼熱地獄しゃくねつじごくが嘘のように心地よく、あたりをそよぐ柔らかな風が灯の不快指数を和らげてくれた。神聖なるマイナスイオンを全身に浴びながら歩みを進めると、美しい本殿が見えてくる。

 灯は手水舎ちょうずで手や口を清めたあと、本殿へと向かい、二礼二拍手のあと、手を合わせて、お参りを終えると、御朱印を頂くために、神楽殿かぐらでんまで歩き、列の最後尾に並んで、カバンの中から御朱印帳を取り出した。

 あれっ? また光ってる。

 御朱印帳はあの日以来、光ることはなかった。なので、あれは錯覚なのだろうと思っていたが、今またこうして、なにかを主張するように光を放っている。強い日差しに照らされているので、パッと見は分かりづらいが、灯には発光がよくわかった。ゆっくりと御朱印帳をめくると、墨で描かれた地図が目に入り、違和感を覚えた。

 『朱印所』と×印が記されている場所は、本殿よりもずっと手前、パワースポットとして有名な井戸の近くなのだ。
 灯が今並んでいるのは神楽殿。

 明らかに場所が違うーー。
 御朱印の授与所が移転したのだろうか。

 ヤク爺は、『決められた日に、決められた場所で、御朱印を頂かねばならぬ』と言っていた。決められた場所というのは、指定された神社のことだと思っていたけれど、もしも朱印所を指しているならば、ここは、決められた場所ではない。摩訶不思議まかふしぎな御朱印帳だなんて100%信じているわけじゃないけれど、どうせやるなら、言われた通りにやってみたい。

 背後を見ると、灯のうしろに三人ほど並んでいた。灯を含めて、総勢十数名の列になっている。時間の経過とともに列は長くなるだろう。
 地図に記された場所に行っても、なにもなかったら、また並びなおしだ。
 灯はしばし悩んだが、このあと予定があるわけでもないので、御朱印帳に記された場所を目指すことにした。

 参道から、少し横道に入ると、さらに緑は深くなり、森の中を歩くような心地良さに包まれ、すぅーっと胸いっぱいに深呼吸をする。

 空気がおいしい。

 歩き始めて、それほど時間が経たないうちに、『朱印所』と墨文字が掲げられた木造の小さな建物が見えてきた。

 朱印所には、誰一人列をなしていない。
 どうやら穴場の朱印所らしい。

 灯はニンマリと緩む頬を引き締めて、受付の巫女みこに、お代と御朱印帳を差し出した。
 このときの御朱印帳はもう、光ってはいなかった。

 建物の中から、ふわりと墨の香りがする。

「お参りいただき、ありがとうございます」

 灯から御朱印帳を受け取った巫女は、丁寧に筆をとり、書き終えると鮮やかな朱色の印を押した。

「こちらが、当神社の御朱印です」

 巫女は灯が見やすいように、書かれたばかりの御朱印を掲げ、色写りしないように半紙を挟んで優しく閉じると、灯へと戻してくれた。

 そして「あちらでのお参りもされるとよろしいですよ」と言って、先ほど灯がやってきた方向と逆方向をてのひらで指し示す。

「あちらにも拝殿があるのですか?」

 そう訊ねると「はい」とにこやかに微笑まれる。
 灯は、ありがとうございます、と礼を述べ、早速もう一つの拝殿へと向かった。

 どれくらい歩いただろうか、鳥居が見えてきた。
 鳥居の奥には、最初にお参りを済ませた本殿よりも、だいぶ小さな建物が姿を現した。

 灯は一礼して鳥居をくぐると、拝殿へと向かい手を合わせる。
 向拝には龍の彫り物が施されていた。朱里七福神社あかりしちふくじんじゃのそれとは少し顔つきが違うけれど、きっとこれも『昇り龍』『降り龍』なのだろう。
 そして、拝殿の奥に飾られている古めかしい鏡に目が留まった。
 銀色の丸い鏡は、そのふちに幾何学的な模様が刻まれており、鏡面から青白い光がゆらゆらと揺らめいている。

 灯は、何かに導かれるように、無意識に光へと手をのばす。

 次の瞬間、青白い光が腕に絡みつき、
「えっ!?」と思う間も無く、ふわりと体が宙に浮き、強い力で鏡の中へと引き摺り込まれた。

「きゃあぁーーーーーーーっ」

 まるでプールに引き摺り込まれたかのように、水のようなものがまとわりついて、手足をバタつかせる。

 地面に足がつかない。
 息が、できない。
 苦しいーー。
 

 薄れゆく意識の中で、草原が風になびいているような、ざわざわとした騒めきが聞こえた気がした。

 さわさわと頬を撫でるような草の感触。
 遠くで誰かが灯のことを呼んでいる。

 あかりーーさま。
 鈴を振るような、透き通った優しい声。
 あなたは、誰?

 だんだんと声が近づいてくる。
 灯を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。

「灯様、起きてください」

 体をゆすられる感覚と、灯の名を呼ぶ柔らかな声で、ゆるやかに意識が浮上する。瞬きをして、ぐるりとあたりを見渡すと、どこかの古いお屋敷で意識を失っていたようだ。

 上体を起こすと、背後から「灯様」と、呼ばれ、びくりと肩をすぼませた。

 ゆっくりと振り返ると、若草色の着物をまとい、透き通るような白い肌に艶のある長い黒髪を背中に流した女性が心配そうにこちらを見ている。

 この人、どこかで……。

「あっ、御朱印の?」

 そうだ、着ているころもは違うが朱印所にいた巫女だ。

 巫女は、灯の前に歩み寄ると「大事ごさいませんか?」と、微笑んだ。そして「ささ、ご案内いたします」と言って、膝をかがめて優雅に右手を差すと、灯が立ち上がるのを手伝ってくれた。

「あのう?」
「あっ、失礼いたしました。私は、眷属けんぞくかずらと申します」

 ケンゾク? ってなに?
 そんなことより、ここはどこ?

 訳も分からずに、志方しかたあかりです、と名乗ると、
「はい、存じております。志方灯様。お待ちしておりました」とかしずかれ、「ささ、こちらへ」と促されるがままに後を追う。

 板張りの廊下は歩を進めるたびに、ギチっ、ギチっと不快な音を鳴らし、灯の心細さと不安感をあおっていった。

 案内された大広間も、やはり板張りで、人が座る部分のみ畳が敷かれ、床が一段高くなっている奥の部分は、御簾みすで仕切られている。

 ちょっと、待って。
 御簾って、公家? 平安時代?

 学生のころ漫画で読んだ源氏物語で描かれていた建物を思い出す。
 いや、神社なら令和においても御簾があってもおかしくないのかもしれない。
 拝殿の中になんて入ったことがないから、この状況がさっぱり理解できない。

「灯様、どうかなさいましたか?」

 よほど、不安げな顔をしていたのか、蔓が心配そうに灯の顔を覗き込む。

「あのう、ここは?」
 灯は不安から逃れるように蔓に訊ねた。

月光院げっこういんでございます。ご心配にはおよびません。ヤクじん様も、もうじきお見えになりますので」

 ヤクじん様?
 ーー誰?

 再び蔓に質問しようとしたそのとき、御簾の中で、人の気配を感じた。
 布がこすれる音とともに、誰かが、ゆっくりと腰をおろす。
 あたりの空気がピリリッと引き締まった。
 灯は姿勢を正すと、御簾の方へとじっと目を凝らす。すると、ゆるりと御簾が上がり、あるじの胸元あたりでぴたりと止まった。
 顔は見えないけれど、真っ白な平安装束のような衣をまとっている。おそらく男の人だ。

 あれは束帯そくたい? いや、博物館で見た時はもっとピシッとしていた気がするので、狩衣かりぎぬだろうか。白い布地なので浄衣じょうえかもしれない。
 浄衣だとすると、やはりここは神社の中?
 鏡の中に吸い込まれた気がしたけれど、気のせいだったのだろうか?

「灯殿。ようおいでなさった」

 あれこれと考えている最中に、声をかけられ覚醒する。
 と同時に落胆の気持ちが湧き上がる。

 ヤク爺の声じゃない……。

 心のどこかで抱いていたヤク爺ではないかという淡い期待は、シャボン玉のようにパチンと弾けた。
 ならば目の前にいる人は……?

「外はさぞかし暑かったであろう?」

 灯が抱えている不安など、知るよしもないあるじから、有難くもお言葉を頂戴する。
 けれど、目の前に広がる不可思議な光景は、灯の情報処理能力をはるかに上回っており、返す言葉が見つからない。

「寂しいのぅ、ワシのことを忘れてしまったのかのぅ?」
 目の前に座る、得体のしれない主の言葉が砕けた途端、安堵が広がった。

「ヤク爺?」
「ようやく気付いたかのぅ」
「でも声が違う」
「さようか。灯殿に助けてもろうた日は、体調が悪かったでな」

 言われてみれば、そうだ。ヤク爺のたったひと言で、頭の中の霧が晴れた。

「そっかぁー、声が若々しいから、わからなかった」
「若々しい?」
「はい、とっても」
「嬉しいことを言うてくれるのぅ」

 姿は見えないけれど、ヤク爺のニカッと笑う顔が目に浮かんで、先ほどまでの緊張感が一気にほぐれる。と同時にいくつもの疑問が浮かびあがった。

 どうして御簾越しなの?
 月光院ってなに?
 ヤク爺はここで、なにをしているの?
 今は令和でいいの? 
 まさか、タイムスリップしてる?

 頭の中がごちゃごちゃなので、湧き出てくる疑問もごちゃごちゃだ。

「失礼致します。ヤク神様、お運びしてもよろしいでしょうか」
「かまわぬ」

 ヤク爺が許しを与えるや否や、蔓は高杯たかつきのような器にのせた饅頭のようなものを灯の前に用意し始め、質問するタイミングを逃してしまった。

起始屋きしやの豆大福じゃ。ささ、灯殿、遠慮せずに召し上がれ。ここの豆大福は、じつに美味びみなのじゃ」
「起始屋?」
「あの日、ワシが買い損ねた大福じゃ」
 と、自嘲気味に言う。

 ふふ、どんだけこの豆大福が好きなんだろう。わざわざ、灯のために準備してくれたのだろうか。

「では、遠慮なくいただきます」

 灯は手を合わせてそういうと、添えてある懐紙で豆大福を包んで口に運んだ。
 柔らかなもちもちとした食感の中から、ふんわりとしたあんこの控えめな甘さが口の中いっぱいに広がる。

「おいしい……」

 思わず声が漏れると「そうであろう」と、満足げな声が返ってくる。

「起始屋はな、起きて始まると書いて起始屋と読むのじゃ。一度失敗して倒れても、起き上がって、再びなにか始めると、このように美味な大福を食すことができる。だから、めげるな、そう言われているような気がしてのぅ。いい名であろう?」
 ヤク爺はしみじみと言う。

「隠し味は起始屋のご主人の応援の気持ち、ですかね」

 我ながら、ちょっとクサイことを言ってみると、間髪入れずに、「そうなのじゃ、さすがは灯殿、察しがいいのぅ」と言われ、なんだか照れ臭かった。

「ーーして、その後は大事ないかの?」

 人は一番知りたいことを訊ねるときに何気なくといった感じで問いかけてくる。
 ヤク爺の問いは、まさにそんな感じで、ここに招かれた理由はこれだったのかと、ようやく理解した。灯のことを心配してくれていたのだ。

「いまは七福マートにお世話になってます。みなさん、とってもいい方たちで。店長には、新しく住む家まで紹介していただいたんです。あの店を、七福マートを紹介してもらって、本当にありがとうございました」

 灯は、心を込めて礼を述べた。

「そうか、そうか。住まいのことはワシも気になっておったのじゃ。誇りをけがされた男の怨念は恐ろしいでの。それはなによりじゃ」

 声色からヤク爺のほっとした様子が伝わってくる。灯も胸のつかえが取れたように気持ちが楽になる。近況報告ができてよかった。

「ヤク爺、本当にありがとう」
「なんの、なんの。灯殿は厄を出し切っただけじゃ」

「厄を出し切る?」
「そうじゃ。灯殿、たとえば、うつわに入っておる、黒くにごった水を、綺麗にするには、どうするかの?」
「うーん、汚れた水を捨てて、新しく綺麗な水を入れ替えるとか?」

「それじゃ。ヒトは生きている限り、水が濁ってしまうのじゃ。怒り、苦しみ、嫉妬、他人から向けられる妬みや嫉みもそうじゃ、理由はいろいろある。たとえどんなに善人だったとしても濁りを止めることはできぬ。万人に対して善人でいるということは不可能じゃからな。そして、この黒く濁った水が⚫︎じゃ。心身をむしばむ毒と言うた方がわかりやすいかのぅ。黒く濁った水は、体の外に出さぬと綺麗にはならぬ。そして濁った水を外に出したあとに、流れ込む綺麗な水こそが幸運と呼ばれるものじゃ。灯殿は、⚫︎⚫︎という言葉を訊いたことはあるかの?」

「不幸や災難が降りかかってくる年のことですよね?」

「それは、半分正解で、半分は誤りじゃ。不幸や災難が降りかかってくるのではなくて、おのれの体の内側から厄が滲み出ているだけなのじゃ。綺麗な水に入れ替えるためにのぅ。じゃが、人間は、己の身から出たものとは知らずに、不幸や災難が降りかかってくると勘違いをしておる。単なる解毒げどく。流行りの言葉でいうとデトックスじゃな。それが厄出しじゃ」

「厄年は、デトックス?」
「そうじゃ」
「それなら、厄出しが終われば、幸運が巡ってくるってこと?」
「それがそうとも言い切れぬ」
「どうして?」
「灯殿、薄いガラスの器に熱湯を注いだらどうなる?」
「割れる?」
「そうじゃ。幸運を受け入れる準備が整っていないと破滅するゆえ、幸運を流し込むことはできぬのじゃ。ゆえに、厄出しのあとも用心が必要じゃ」

 灯はこれまでのことを、ゆっくりと思い返してみた。
 しばらく前から不運が続いていたこと。けれど、慎二と別れ、会社を辞めてからは、不運続きの日々から解放されたこと。それどころか、七福マートで働き始めてからは、同僚に恵まれ、住まいも新しくなり、幸運期に突入したのではないかと思えたこと、これらのことをヤク爺の話と照らし合わせると、灯は厄出しが終わり、灯の中の器に綺麗な水が流れ込んでいるということになる。けれど、ひとつだけせないことがある。

「ヤク爺。私、ーー厄年じゃない」
「いいところに、気づかれましたな」

 御簾の向こうで、コホンと小さな咳払いが聞こえた。

「厄年は、あくまでも厄出しの目安の年齢なのじゃ。必ずしもその年にはあらず。それからのぅ、身近に厄出しの真っ最中の者がいる場合も要注意じゃ。時折、厄を周囲の人間に飛ばす者がおるでの。先ほど、灯殿は厄年のことを『不幸や災難が降りかかってくる年』じゃと申した。それに対してワシは『半分正解で、半分は誤りじゃ』と返した。つまり、不幸や災難が降りかかってくることもあるのじゃ。じゃが、降りかかってくる場合は、厄年に限ったことはでないがのぅ。そういうことじゃ」

 厄年でなくとも、厄は巡ってくる。
 そして、幸運を受け止める耐性がないと、壊れてしまう。
 ヤク爺は灯に耐性があるのかを心配してくれているのかもしれない。

「ヤク爺ーー」
「ん?」
「厄除けの神様なの?」

 唐突過ぎる問いに、ヤク爺はひと言も発しない。
 てっきり「気付かれてしもうたかの」と、おどけて肯定してくれるものだと思っていた……。
 沈黙にいたたまれなくなった灯は、「やだなぁ、ヤク爺。冗談だから、そんなに間に受けないでよ」と、茶化して、うやむやにしようとした。

「灯殿……、そのことなのじゃが……」

 ヤク爺は、なにかを言い淀み、言葉を濁した。
 灯は静かに次の言葉を待つ。
 なんとも言い難い緊張感が走る。
 そのとき、廊下の方から、パタパタと誰かが駆け寄ってくる足音が近づいてきた。

「ヤク…さまぁ、た、た……でーす」

 随分と騒がしい。そして、広間の前でピタリと足音が止むと、勢いよく男の声が響いた。

⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎、た、大変でございます!」

「なにごとじゃ、騒々しい」
「ただいま、京都みやこの方で、疫病えきびょうが、恐ろしいほどの速さで広がりをみせているとのことにございます」
流行病はやりやまいが……、それならばエキに任せればよいであろう」
「お、おそれながら厄病神様」
 
 ヤク、ビョウ、ガミ?
 
 廊下に控えている男は、ヤク爺に向かって何度も⚫︎⚫︎⚫︎と呼びかけた。そしてヤク爺はその呼びかけに、迷うことなく応えた。

 ーーヤク爺が厄病神ーー!!

 一瞬、頭の中が真っ白になる。

 不運な日々は、もしかして、もしかして、目の前にいる厄病神に取りかれていたことが原因だったてこと!?
 しかも、自ら厄病神に会いに来ただなんて、それはもう憑いてくださいと言わんばかりの愚行じゃない。
 鴨がネギ背負ってやってくる、いや、飛んで火に入る夏の虫だ。

 当たり前だけど、取り憑いて欲しいだなんてこれっぽっちも思っていない。できるものなら、一生関わりたくない。たとえ厄病神の正体がヤク爺だったとしても、そんなの関係ない。
 厄病神は厄病神だ!

「あ、あかり殿――」

 御簾の中から、狼狽うろたえる声がきこえた。灯がヤク爺の正体に気付いたことに、ヤク爺も気付いたのだろう。

「ヤクビョウ、ガミ……、ってなに? ……どう、いう、こと?」

 声が震える。
 再び沈黙が落ちた。

 ーー逃げなきゃ。

 咄嗟にそう思った。灯は無言で立ち上がると、一目散に駆け出した。
 厄病神に取り憑かれるだなんてまっぴらごめんだ。
 だが、すぐにヤク爺が御簾から飛び出してきて、あっけなく腕を掴まれる。
 振り解こうと強くあがくが、ヤク爺の力の方が強くて振り解けない。

「灯殿! デトックスじゃ! 恐れる必要はない!」
「いやっ、離して!」
「案ずることはない! 灯殿、落ち着きなされっ」
「いやだっ! 私に取り憑いて楽しかった? 私が苦しんでいるのを見て楽しんでたの? 離してよーっ!」

 そう叫ぶのと同時に、ヤク爺の力が一気にゆるんだ。
 急に腕を解かれた形になり、バランスが崩れて尻もちをつく。
 灯はヤク爺の顔を見上げる態勢となりギョッとした。

 か、顔がない……。

 いや違う。顔はある……。

 けれども顔が見えない。目の前のあるじは、目の部分だけがくり抜かれた頭巾のようなものをすっぽりと被り、表情をうかがうことができない。ただ、仄暗い真っ黒な二つの瞳がじっと灯を見ていた。そこから感じるのは、異様さと不気味さ、何か得体のしれない恐怖だけだった。 

 灯は腰が抜けそうになりながらも、必死に立ち上がると、猛然と駆け出した。今度は腕を掴まれることはなく、逃げ出せた。
 けれど、歩を進めるたびにギチっ、ギチっと廊下が不快な音を響かせる。まるで灯の居場所を知らせるかのようにギチっ、ギチっと。

 一刻も早く屋敷から逃げ出したいのに、帰る方法が分からない。ひたすら走っていると、目の前の部屋から青白い光が漏れていることに気が付いた。

 部屋の中をのぞいてみると、そこには鏡が飾られていて、あのときと同じようにゆらゆらと光を放っている。

 あれだ!

 元いた場所につながる扉。
 あの鏡を潜れば、きっと帰ることができるはず。
 灯は、帰りたい、その一心で、躊躇ためらうことなく「えいっ」と鏡に飛び込んだ。
 
 鏡を抜けると、そこは明治森神社の参道脇の小道だった。
 恐る恐るうしろを振り返ると、潜り抜けたはずの鏡がない。
 それどころか辺りを見渡しても、蔓が居た朱印所も、その奥にある二つ目の拝殿へ繋がる小道も綺麗さっぱりと消えている。

 今のはなに?

 狐につままれた?
 それともあまりの暑さにまぼろしでも見た?

 今日はもう帰った方がいい。

 もう一人の自分がそうささやいた。とりあえず、汗を拭おうと、灯はカバンの中に手を突っ込んで、ハンドタオルを取り出す。チラリと御朱印帳が目に留まった。

 触れない方がいい、頭ではそうわかっている。けれど、確かめずにはいられなかった。

 灯は、ドクドクと騒がしい心臓の音を無視して、御朱印帳を手に取り、そっと開いてみる。

 すると、そこには、確かに明治森神社の御朱印があった。

 現実なのだ。
 今、見てきたことは。

《続く》

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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