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「虎翼」最終話翌日。女とか家族とか老人とか(2024年9月28日)

地域の文化祭準備の折、肉体労働を申し出たのですが、ブロックを抱えようとしたら、若い衆から止められました。やるかやらないかはわたしが決めるのだが。

虎翼引きずってます。

老人になった航一さんの「こどもたちに縛られず自由に過ごしたいんです」に引っかかってます。
老いれば、こどもたちは心配から色々制限したり言いがちですからね。

何年か前の秋でした。
電車に乗っていました。駅で乗ってきた女性グループに、向かいに座っていた若い女の子がすぐに立って席を譲りました。わたしより10歳は上のグループの方々は「私達、高齢者だものね」と何やらキャッキャッと愉快そうに座られました。

わたしは見るともなしに、結局は見ていたのですが、背筋を伸ばして談笑する彼女らは、トレッキング用の靴を履き、軽装ですがアウトドアのアウターにリュックです。おそらくは低登山やウォーキング、自然散策を楽しんできた帰りでしょう。
そんな格好だから席を譲られたのかも知れませんが、少なくとも彼女たちの隣の背中を丸めて座る男子高校生よりはお元気そうに見えました。

また、別の日の電車の中でのことです。
席は埋まっていたので、わたしは立っていました。ちょっとキョロキョロとしたので、空き席を探していると思われたのでしょう。目の前に座っていた若い女性が席を譲ってくれました。

わたしはその日、ジムに向かう途中でした。
ジムでは正しいスクワットと、ベンチプレス(トレーナーの補助付き)、重りを左右に持ってのランジをする予定でした。つまり、中身は大丈夫でしたが、見た目が高齢者なのでしょう。丁寧にお礼を言ってありがたく座らせてもらいました。

還暦だったわたしが席を譲りたくなるほどの高齢者に見えたという事は横に置いても、いい話です。日本も捨てたもんじやありません。

でも、高齢者全てが足腰が弱いわけではない。
航一さんの「こどもたちに縛られず自由に」という言葉。ニヤリとしてしまうのです。
既に花江ちゃんの世話に通っている優未への心遣いの裏返しと、家族だからと依存しない矜恃のように思えるのです。家族だから。この言葉にはいい面と悪い面があります。

思えば、寅子の周りは程度の差はあれ、家族間に葛藤がありました。
貧しさから子を売るような家を飛び出したよねさんは言うに及ばす。その対局にある華族の涼子さまはひとり娘であるが故に、家と母親に縛られた。
梅子さんはモラハラ男との結婚で最後は自ら家庭を手放した。
寅子の母、はるさんは実家の母親とは直言逮捕後に縁を切られる仲です。
これは大なり小なり今もどこにでもある、ありふれた話です。

家族でありさえすれば家族であるというのは幻想だと思うのです。互いのエゴを譲り合い、受け入れながら家族である努力をするから成り立つ。
努力をするからで、同じ姓だからではない。

家族あれかしという価値観が選択的夫婦別姓を妨げている。「はて?個人としての尊厳をを失うことで守られても余計なお世話というか」民法改正審議会での寅子の言葉。

親が老いれば子と暮らすのが幸せ。
子は親を看るのが当然。
そうならざるを得ない事も、それが上手くいくケースはあるとしても、前提として「家族が」というのはどうなのだろう。
だからこそ航一さんから、縛られず、というのが、優未を縛らない為の言葉だとしてもカッコイイのだ。あんなシン・老人にわたしはなりたい。

ところで最終話、航一さんの背中からの長いショットは、わたし達に老けメイクを見る心の準備時間を下さったのでしょうか?
おかげでショックは少なかったです。

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