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死と隣り合わせの日常が生きるエネルギーをくれた

 「あ、もしかしたら今日銃で撃たれて死んじゃうかも」。留学中、メキシコに住んでいた以上、家から出るときは常に考えていたことだ。実際、7か月住んで、国内を移動したりもしたけれど、何か盗まれたり、怖い思いをしたりしたことは一度もなかったから、想像していたよりは安全なところだとは思った。しかし、犯罪だけでなく、日常の中にたくさんの危険が潜んでいた。車にひかれるかもしれないし、誤って銃で撃たれてしまうかもしれないし、教会での花火が爆発するかもしれないし、バスや電車の急停車で頭をぶつけるかもしれないし、誤って薬を飲んだり飲まされたりするかもしれないし、ボコボコした道でつまずいて転んで頭をぶつけるかもしれないし、路上の穴(整備されていないので急に落とし穴がある)に落ちてけがするかもしれないし、バスやタクシーに乗っている途中でさらわれるかもしれないし、農業用トラクターやボートから落ちるかもしれない...。常に最悪の事態は想定して、注意深く行動していた。身体の全ての感覚を研ぎ澄まして、周囲の状況を把握するようにしていた。まさに、背中にも目がたくさんついているような感覚だった。そのおかげで、日本にいる時よりも意識がはっきりしていたのではないかと思う。毎日何もしなくてもへとへとで、ぐっすり眠れた。

 4年前インドでガンジス河に向かう時も、マザーハウスのボランティアへ向かうためにタクシーを捕まえる時も、雑多な市場を散策するときも、同じような危機感を持っていた。私たち(大学のインドプログラムのメンバー)が日本へ帰った後、悲しいことに、通った高速道路の高架線が崩れ落ちて、何人かが亡くなったというニュースもあった。それでも、あそこにいた一瞬一瞬は、「あー死ぬかもしれない」と思うと同時に、「あー死んでたまるか」という気にさせられたのである。ガンジス河に向かう道では、脚や手のない物乞いの人々が地面に突っ伏していた。ガンジス河のほとりで、みんなでヨガをしたら、頭蓋骨を見つけた。ヒンドゥー教のお祈りに混ざったら、ロウソク売りのおばあさんに連れていかれそうになった。待ち合わせ時間に遅れてレストランにたどり着けず、トゥクトゥクのおじさんにぼったくられそうになった。ホテルに泊まって寝ていると、外で怪しげなお祭りが始まり、変なラッパや太鼓の音が鳴りやまなかった。このような諸々の場面で、生きていながら死と闇の世界を感じた。生きることは、死と隣り合わせで、光と闇の空間を行き来しながら進んでいくことなのだと思った。

 「死ぬかもしれない」と思って行動した時の頭はものすごく冴えている。色彩、音、匂い、触れるものに、普段の何倍も敏感になると思う。だからこそ、いろんな五感が混ざり合って残った記憶は強烈だ。匂いが組み合わさると、記憶に残りやすいといわれるのも、納得がいく。薄れることはあっても、身体のどこかが覚えている。だから、メキシコから帰って半年経ったけれど、目を閉じれば(閉じなくても)一瞬で、いつも行っていたあの公園を歩いたり、あの市場に行ったり、あの広場に行ったりすることができる。私の中に、メキシコで出会った人、場所、ものたちが鮮やかに生きている。

 日本にいても、あそこにいたときの感覚で過ごせたら、毎日がもっと楽しくなるだろうと思う。日本は安全で、周りに対して注意深くならなくたって生きていける。それなのに、メキシコに行くことが決まる前の私は、無気力だった。死にたいとは思わないけど、生きたいともそれほど思えなかった。毎日がただただ過ぎていった。友達や家族に会うのは楽しいしうれしかったけど、都内に行くために満員電車に乗って、暗くて冷たい行き交う人々を見るのはつらかった。何もない日常に、ありがたさを感じられなくなっていた。そんな日々の中で唯一思い描けたのは、メキシコへ最初に一人で行ったとき、台風でキューバに渡航することができなくなって、泣く泣く移動した先で、お世話になった宿主さんにもう一度会うことだった。それがなぜなのかはわからなかった。彼女はソウルメイトだったのかもしれないし、底抜けの明るさと優しさに、心を救われたのかもしれない。メキシコにもう一度行けば、自分の人生がもう一度動き出しそうな勘だけはあった。

 科学技術の発展によって、交通技術の発達によっても、世界のことはだいぶ知れるようになってきた。だけど、どんなに遠くへ行っても、どんなにたくさんのことを知れたとしても、生きるためのエネルギーについては誰も教えてくれない。自分で見つけるしかない。日本に戻れば、安全で快適で、億劫な日常が待っていて、その毎日にすっぽり当てはまるだけだ。けれど、メキシコで、死と隣り合わせの日常で感じたワクワクドキドキした感覚を、再現することができたなら、生きるエネルギーを生み出すことができるだろうと気付いた。そのために、今まで気づかなかったこと、怖さを理由に避けていたこと、できないと決めつけていたことに挑戦することにした。釣りにも農作業にも、車の運転にも興味がある。冒険者になって、光と闇の空間を行き来し、受け止めながら、生きるエネルギーの途切れない空間を進んでいきたい。

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