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アパートメント紀行(12)

リスボン #5


 お昼過ぎまで眠り、お腹が空いてきたから起き、人恋しくなってきたから外に出る。公園の人混みが、今日は特別多いなあと思っていたら、そうか、今日は日曜日。今まで素通りしていたけれど、今日はポルトガル語がわかるふりをして、ブックフェスティバルをゆっくり楽しむことにする。

 まずは食べ物の屋台に並び、前の人の真似をして、ポルトガル料理の中で一番有名なスープらしいカルド・ヴェルデというものを頼んでみる。その名の通り緑色のスープは、とろとろに煮込まれたジャガイモのスープの中に、千切りキャベツがどっさりと入っていて、目にも舌にも胃にもやさしいスープだった。
 
 屋台の脇にあるベンチで、スープをすすりながら人混みを見ていると、一番賑わっている辺りに、テレビカメラが数台突入していくのが見えた。歓声も聞こえてきたし、有名人でもいるのかなと思いながら、急いでスープを飲み終えて立ち上がり、なんとなくその輪に加わってゆく。

 本の小屋と人々に囲まれた中央の通りに、立て看板で仕切られた即席の舞台があり、檀上には数人の知的そうな男女が座っていて、それぞれがマイクを手に持っている。立て看板に張られたポスターの写真と、舞台上の彼らの顔を交互に眺め、彼らが有名な作家たちなのだと気づく。ポルトガル語は読めないけれど、これからトークショーが始まり、次にサイン会があることが、ポスターと周りの雰囲気からわかった。

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 スープだけでは足りなかった私の胃袋が、もっと食べ物をよこせというので、今度は別の屋台でフィッシュバーガーとビールを頼む。片手では持てないほど巨大なフィッシュバーガーと、ハーフにしておけばよかったと後悔するほどの量が注がれたビールのコップを渡されて、両腕に抱え込むようにして持ち、座れる場所を探す。ランチ中の家族連れで混んでいる芝生に空席を見つけ、座ろうと屈み込んだ瞬間、びりりりと、太ももの後ろに振動が走る。何が起こったのかとびっくりして一瞬息が止まったけれど、三秒後、何が起きたのかを悟る。

 ジーンズが破れたのだ。旅に出てからだんだんと、ジーンズを履くのに苦労するようになっていて、擦り切れて薄くなっていた足の付け根部分の生地が、私のはち切れそうな臀部の圧迫により、ついに事切れてしまった。
 
 大声で笑い出したくなる衝動を抑え、両腕の食べ物と飲み物をまず芝生に置き、破れた箇所を点検する。下着が見えるほどの場所ではないことを手で触って確認し、これなら大丈夫かとそのまま芝生に座り続ける。座っていると、お腹周りも相当に苦しいけれど、でもお腹は空いている。

 破れた箇所から肌に直接当たる芝生が、予想以上に固くてちくちくするけれど、それでも何食わぬ顔でフィッシュバーガーにかぶりつき、ぽろぽろとこぼれ落ちるキャベツはそのままにして、口の周りにつくソースだけを紙ナプキンで拭い、口の中に残るもろもろした衣をビールでぐいと流し込む。
 
 斜め前で父親と遊んでいる小さな女の子が、遠慮なく私を見つめている。充分に私を観察したのち、小さなおもちゃを手にこちらへ向かってくる。あいにく私の手はべとべとにだったので、せっかく差し出してくれたその多分カエルのようなおもちゃを受け取ることは出来なかったけれど嬉しかった。晴れ渡った日曜日、世界中の公園で、こんな光景が見られるといいのにと思いながらビールを飲み干す。

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 フェスティバルの賑わいの中にいるのは楽しかったけれど、とりあえず破れたジーンズのことが気にかかるし、手も洗いたかったので、ゴミを捨ててホテルへ戻る。
 顔馴染みのドアマンが、うつくしく笑ってくれる。実をいうと私には、ドアマンたちの個々の顔の判別がまだ出来ていなくて、リカルドさんは覚えたけれど、マヌエルさんとフェリペさんは間違える。いちいち胸の名札をチラ見するのも失礼なので、目を見て挨拶するだけで精一杯だったけれど、日に日に人懐っこい笑顔になってゆく彼らと接するたび、エレベーターに感謝する。

 すっかり自分の部屋のように思えてきたホテルの部屋で、いつの間にか窮屈になってしまったジーンズを脱ぐ。破れた部分を見てみると、もう少しで右足部分が取れてしまうほど裂けていた。小さな携帯用裁縫セットでは修復不可能で、履き続けることが出来ないのは明白だった。
 残念だけど、このジーンズとはお別れしなければならない。何年も履いていた感じのいいジーンズとの別れはつらかったけれど、新しいジーンズとの出会いが待っている。明日はジーンズを買いに行こう。

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 ヴァスコ・ダ・ガマ・ショッピングセンターへ行くには、ツアーバスに乗るか、地下鉄に乗るかである。早々に地下鉄で行くことに決めたのは、ショッピングセンターに行くためだけにツアーバスに乗るのは割が合わないからだ。バス料金で、ひょっとしたら安いジーンズが買えるかも知れないし、それが無理だとしても少し高めのランチが食べられる。

 目的地のオリエンテ駅で、思ったより乗降者が少ないなあと不審に思いながら地上に出ると、予想していた景色が見当たらない。ツアーバスで通った時に見た近代的なビル群はなく、何よりテージョ川が見当たらない。改めてメトロの入り口のサインを見ると、「0riente」ではなく、「0livais」と書いてある。なんてこと! 「0」しか合っていない!

 路線図を取り出して調べてみると、オリヴァイス駅は、オリエンテ駅の二つも手前だった。どうするかと思案して、多分ここから下っていけば川に出られるんじゃないかという安易な発想が湧き、駅二つ分歩いてみようという気になった。

 この辺りはきっと、観光バスも通らない住宅街なのだろう。誰も歩いていないし、点々とマンションが建っているだけで、なんにもない。坂を下って行くうちに、周囲が空き地だらけになり、だんだんと建物さえなくなってきて、遠くに見えてきたテージョ川の小ささに絶望感を抱く。さすがにこれはマズい。こんなところで迷子になったら、タクシーさえ拾えないし、川まで道が通じているかもわからない。十分ほど歩いたところで引き返そうと決める。

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 下ってきた坂道を登ろうと振り向いた時、肉体労働者風の男の人が、上から歩いてくるのが見えた。ざわっと身体が緊張し、思わずバッグを握りしめる。男の人は、ヘルメットを手にぶら下げていて、私のことを不審な目つきで見ている。旅に出て初めての恐怖感に包まれ、いざという時には走れるかと自問しながら歩いていたら、すれ違いざまに男の人が何やらいった。

 緊張感が走り、警戒しながら、男の人の話を聞いているような聞いていないような素振りでいると、男の人は、私に言葉が通じていないことを悟り、身振り手振りをつけて早口で、坂の上を指さす。
 あ、地下鉄の駅はこの上だと教えてくれているのだ。私が道に迷っていることをわかっていたのだ。疑って悪かったなあと反省し、ありがとうございますと日本語でいい、坂を下ってゆく男の後ろ姿をしばらく見ていた。

 何でも疑ってかかると怪しく見える。異国に女一人でいるのだから、疑ってかかるくらいでちょうどいいのだと思うけれど、道を教えてくれようとした親切な人を疑ってしまって申し訳なかった。一人旅というのは気楽だけど、こんな時少し疲れる。一緒に道に迷ってくれる相手が欲しくなる。

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 メトロの駅まで引き返しながら、私はきっとこの風景をずっと忘れないだろうと思った。旅先で道に迷った時の景色は、なぜか私の記憶に長く留まる。誰と一緒に道に迷ったのかということは思い出せなくても、迷って佇んでしまった時の景色と匂いと不安感は瞬時に甦る。
 ということは、一緒に迷う相手がいなくてもいいってことなんじゃないかという結論に至り、いつも通りすぐ元気になる。

 メトロのサインを再び目にし、ヴィヴァ・ヴィアジェンを使って改札を通りホームへ行く。地下鉄を待っている人は誰もいなくて、満員気味の電車が滑り込んできてやっとホッとする。そそくさと電車に乗り込んだ時、私はオリヴァイスに住んでいる人のように見られたに違いないと考えた。でもそんなこと誰も思わないだろうし、私のことなんか誰も気に留めはしないのに、そう考えてしまった自分の自意識の過剰さに苦笑する。道に迷ってちょっと緊張していたようだ。

 本物のオリエンテ駅に着くと、駅は巨大で近代的で、乗降客で溢れていた。流れに沿って歩くと、そのままヴァスコ・ダ・ガマ・ショッピングセンターへと流れ出た。
 広々とした吹き抜けの三階建てのショッピングセンターを、一軒一軒ゆっくりと服を見て回り、若者向けの最新ファッションの店で、お目当てのジーンズを見つける。

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 店員のお洒落な女の子たちが、どうぞ試着して、といっている。私が英語しか解さないことを知った赤毛の女の子が、ちょっと待っててといって、休憩中だったらしい店員の女の子を奥から連れて来る。
 流暢な英語を話す黒髪の女の子は、テキパキと私に合いそうなジーンズを数本選び、試着室へと私を連れてゆく。彼女が選んでくれたジーンズは細身のものばかりで、どれを履いても若干苦しいのだけれど、彼女らはこれでいいといって譲らない。確かに、お腹周りの肉がはみ出るほどの苦しさではないし、単に、履き慣れていないというだけのことなのだろう。

 それにしてもジーンズの丈が私には長過ぎる。丈を直すには一週間かかるという。一週間後はスペインだから、無理かなあと諦めかけていたら、彼女らは、ほら、見て、と、自分たちの履いているジーンズの裾を指差す。誰も切ったりしないのよ、折り曲げたり、この辺でたくしあげたりするの。彼女らは、ジーンズの履き方を教えてくれる。

 スニーカーに合わせる時は、裾は足元で適当にたるませる。パンプスやサンダルに合わせる時はロールアップする。ほらほら、といって彼女たちが、他の買い物客たちの足元を見るようにいうので、眺めていると確かに、きっちりと丈の合ったジーンズを履いている人は少ない。ね、オッケーでしょ、という黒髪の女の子がいう。

 彼女の着ているTシャツが素敵だったので褒めると、すごい速さで色違いのTシャツをたくさん持ってきて、私に似合う色を探してくれる。かいがいしく構われることに照れくさくなって、薄手のシャツが置いてある棚に視線を泳がせると、シャツならこれが似合うわと、薄いブルーのプルオーバーを勧められる。
 私は、自分が人のいいおじさんになったような気分になって、じゃあ、全部くださいといい、ジーンズとTシャツとプルオーバーのシャツを買う。店員の女の子たちは、丁寧に服を袋に詰めながら、美味しいランチの店を教えてくれる。
 リスボンを楽しんでね、良い旅を、といって笑顔で見送ってくれる女の子たちに手を振りながら、いいカモになってしまった自分を情けなく思いつつも、不必要なものを買わされたわけではないので、愉しい時間を過ごせ、役に立つファッション講座を受けられて良かったと思ってブティックを後にする。

 彼女たちが教えてくれたお薦めのランチの店は、手軽なイタリア料理の店だった。給仕のイタリア人のお兄さんたちが、もれなく全員格好良くて、美味しいパスタを食べながらすこぶる気分が良くなる。彼らにチャオと見送られ、満腹感と共に幸福感も湧き上がる。

 なんて私は簡単なんだろう。ショッピングセンターの素敵なトイレで、化粧道具が埋め込まれた手洗い場に驚きながら鏡を見て、二重顎になりつつある自分の姿を笑い飛ばした。

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