アパートメント紀行(7)
ブライトン #7
翌日、筋肉痛に苦しみながら日課の散歩へ行き、アパートへ戻ろうとのんびり歩いていると、アビーの車が海岸沿いの道に停まっていることに気づいた。
中を覗いてみると、アビーが運転席に座っていたので、助手席の窓をコンコンと叩くと、アビーがこちらを向いた。
私は、ハッとして、しまった、と思ったけれど、泣き顔のアビーが窓を開けたので、ハーイ、というしかなかった。
アビーは、涙を拭きながらハーイといい、それから、ごめんなさいといった。そしてまたはらはらと涙をこぼす。悲しい時にごめんなさいというと、涙の量は倍増してしまうのだ。私は慌ててごめんねといい、もらい泣きしそうになりながら、アビーの車のそばに立っていた。
しばらくして、涙をきれいに拭ったアビーが、少しドライブしない? と誘ってくれたので、断る理由なんてもちろんなかった私は、助手席のドアを開け、アビーの小さな車に乗り込む。
私が、昨日セブンシスターズに行って来たのよと報告すると、アビーは、私たちはまだなの、もう少し暖かくなってから行くつもりなのといって、やっと笑顔になってドライブがスタート。
いつ発つの? とアビーが聞く。
来週の木曜日、と私が答える。
ワオ、あと十日?
そうだね、時間の経つのは早いね。
次はどこ?
リスボン。
それから?
マドリード、バルセロナ、南フランス。
いいわねえ、私もフランスへ行ってみたいなあ。
行けるよ、近いもの。
そうよね、隣の国だもんね。
アビーは嬉しそうに笑って、真面目な顔で、いつか日本にも行ってみたいなあという。
アビーの車は、ブライトンの街を軽やかに駆け抜ける。このカフェおしゃれよねえ。あ、あのお店のパイは美味しいわよ。あそこのブティックにはミキの好きそうな服がたくさんありそう。ねえ、タイのレディボーイってきれいよねえ。
アビーが感嘆するレディボーイが踊る店の前には行列が出来ている。私は、英語でガールズトークをしている自分に感嘆している。
小さな街を一巡りして、アビーの車はアパートの前の駐車スペースにきゅきゅっと停まった。車を降りて、アビーがありがとうといったので、私は生まれて初めて自分からハグをした。
ありがとうというべきは私の方だ。仲良くしてくれてありがとう。ゴミの出し方を教えてくれてありがとう。ルックを飼っていてくれてありがとう。心を寄せてくれてありがとう。いつも微笑みをありがとう。そんな気持ちを全部こめてハグをした。
ウチに寄ってく? と聞かれたけれど、丁寧に断って自分の部屋に入ると、私のスリッパを噛んでいるルックと目が合った。そしてルックは、アビーの帰宅に気づき、じゃあまた明日ねという顔をして、急いで階下へと帰って行った。
ここのところずっと、次の滞在地であるリスボンや、その次のマドリードやバルセロナで泊まるホテルをネットで探している。リスボンからマドリードまでは列車で行く予定にしていたのを、キャプテンクックの時刻表とにらみ合った結果、やっぱり飛行機で行くことにしたのでその変更など、移動のための諸々の準備に追われている。
春が来て、薄着になって、これからはどんどん南下していくので、必要のない厚手の服を日本へ送るか処分するかどうかも悩んでいる。
私の生活道具や服や絵の道具を預けてきた倉庫を管理してくれている年若い友人は、ひょっとして私ったら忘れてしまったけれど若い頃に娘を産んでいたかしら? というくらい家族のように身近に感じられる友人で、倉庫の管理人さんには、妹だと嘘をついて彼女に倉庫の鍵を預けている。留守中の郵便物も受け取ってくれている。彼女にはもうすぐ二人目の子供が生まれる。私の中で、彼女とアビーが重なる。デレクが、彼女の旦那さんのようにアビーを大事にしてくれるようにと願う。
これからは着ないであろう厚手の服は、そんなにたくさんあるわけではないので、送るほどではなかったのだけれど、服と一緒に彼女たちへの荷物を入れれば、段ボール一個分にはなるだろうと思いついた。毎日のように行っている巨大スーパーには、充実した子供服売り場があるので、そうだ、子供服を買いに行こうとちょっと張り切る。
私には子供はいないけれど、彼女のおかげで孫がいるような気分になれる。産まれ立ての赤ちゃんが着る服のなんともかわいらしいこと。もうすぐ三歳になる上の男の子用の服もまだまだ小さい。
小さい人たちの服は、どんなに買ってもかさばらないので、段ボールをいっぱいにするには、かさばるおもちゃを買うしかない。そういうわけで買い物をする理由が出来たので、連日見てはいたけれど買うには気が引けていた子供のおもちゃや、用途のわからない台所用品、日本にはなさそうな調味料やお菓子などを遠慮なくカートに入れてゆく。今度は、荷物が段ボールに入りきれるかどうかが気になってきたけれど、その時は、箱を大きいのに替えればいい。
両手いっぱいに買い物袋を提げ、海岸沿いを歩いて帰る。この頃はすっかり春真っ盛りで、昼間の太陽は人々の服を脱がしてゆくから、ごろごろと浜辺に寝転がって日光浴をしている人たちの上半身には服がない。
ここへ来たばかりの頃には咲いていなかった色の花々が、道端のいたるところで赤や黄色や白の見事な姿で咲いていて、イングリッシュガーデンの見本のような立派な庭や、簾や火鉢を使ってオリエンタルな演出をしている庭や、外壁を塗り直しているリゾート用マンションや、忙しそうに働く庭師を見ていると、夏がすぐそこまでやってきていることがわかる。海の色も少し濃いブルーへと移ろいつつある。
リスボンのホテルもマドリードのホテルもバルセロナのホテルも予約した。空港までのタクシーも手配した。日本へ荷物を送るための宅配便は、明日荷物を引き取りに来てくれる。
少しずつ移動準備が整ってゆくと、ルックとの別れがつらくなってくる。今も目の前で床に転がり、ガムテープと遊んでいるルックは、来週には私がいなくなることをわかっているだろうか。
私がいなくなった後、キッチンの窓の外で待っているルックの姿を想像すると切なくなる。旅に出て、友達が出来るということは、たくさんの別れを経験しなければならないということなのかと気づく。どうか、私の後にこの部屋に入居する人が猫好きでありますようにと願う。
ブライトンでの最後の一週間、これまでの五週間と同じように、散歩をして買い物をしてルックと遊んで過ごした。まだ旅は続くので、お土産を買わなくていいのが新鮮だった。
私はここで何もしなかった。ただ、ここに居ただけ。何もしないということをしていたのかも知れないけれど、住んでいた街で何もしないでいたならば、罪悪感に苛まれていただろう。
母を失った後、なぜか最初の夫を失った時の喪失感までが甦り、私は身動きが取れなくなった。大切な人を失った後、人の心がどんな道筋を通るのか知っていたから、またその行程を辿るのかと途方に暮れた。長い旅に出るという思い切った行動に出ないと、ろくに息も出来ないくらいだったので、友人たちも驚くほどの素早さで私は旅に出た。そして、ここで毎日ぼんやりと過ごした。
アパートを去る前日、いつもより丁寧に掃除をして、日本へ送った分だけ減ったはずの荷物を必死で一つのトランクに詰めようとして早々に諦める。入りきれなかった荷物を、街で買った布製のバッグに詰め、それからゴミを捨てに行き、アビーとデレクとルックに別れを告げるために地階へ下りた。
ルックを抱いたデレクは、ルックの手を掴み、いい旅を、とルックの手を振る。
アビーは、アイム・ソー・グラッド・トゥー・シー・ユーと、ゆっくり一語ずつ感情を込めていいながら、私の手をぎゅっと握った。
あなたに会えて本当によかった。
定型挨拶文として覚えているフレーズが、こんなに心に沁みる言葉だったとは。教科書で学んだ英語を、心を込めて、そっくりそのままアビーに返し、途中で笑ってしまうほど何度もハグをして別れた。
部屋へ戻ると、きちんと片づいた空間にトランクが置かれている様が、まるでここへ着いたばかりの光景のようで、不安だった最初の日のことを思い出す。たった六週間居ただけで、ここはすっかり私の居場所になった。出来ることなら今の気持ちのまま最初の日に戻りたかった。
最後の夜、少しだけ感傷的になって、夜の海へ行ってみた。観覧車も埠頭もライトアップの時間は終わっていて、それでも仄明るい空に満月。寄せる波頭をゆっくり照らす月明かりは、それをうっとり眺める私の心を落ち着かせる。
視界には誰もいない。波音が、時々通る車の音をかき消すから、私の耳には海の音しか聞こえてこない。私はどこにいるのだろう。そんなことがわからなくなるくらい周囲は静かで、まるで嵐の後の無人の街にいるようで、私だけが生き残ってしまったのではないだろうかと少し不安になる。
ふいに生温い風が肌を通り過ぎ、海岸線をジョギングしている男女の姿が目に入る。不安は去り、大きなくしゃみが一つ出る。少し風邪気味だったのを思い出し、鼻水をすすりながら急いで部屋へ戻る。これからも旅は続くから、早くベッドに入らねば。ブライトンでの最後の夜、風邪薬を飲んでから、私はゆっくりベッドへ沈んでいった。
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