2020年ブックレビュー『ある男』
平野啓一郎さんの『ある男』を読みながら、2017年に東京の小劇場で上演された「アジアン・エイリアン」という舞台を思い出していた。「ワンツーワークス」という社会派劇団のオリジナル作品。生きづらさを抱える在日の男性が、戸籍を買い取って別人となる話で、テーマの一つに「戸籍の売買」があった。これを観ていたので、「ある男」について、より深く考えることができた。
弁護士の城戸は、依頼人の里枝から死んだ夫の素性を調べてほしいと頼まれる。夫だった谷口大祐は、「谷口大祐」という人物ではなかったからだ。偽の「大祐」は何者なのか、本物は生きているのか、死んでいるのか。城戸は調査にのめり込み、「大祐」を名乗っていた男の過去や、戸籍を変えて別人として幸せをつかもうとした理由に行きつく。
同時に、在日3世という出自を持つ城戸の心の揺らぎも丁寧に描かれる。震災を経て、ヘイトスピーチが先鋭化した現実を生きる城戸自身も、偽の名前や経歴を騙ってみることに共感とかすかな憧れを抱いているようだ。そして、こう言うのだ。「他人の傷を生きることで、自分を保っているんです」と。
「私」という人間には、名前という固有名詞があって家族もいる。そういう「私」は本当に「私」なのだろうか。「私」にも一面的ではなく多彩な顔があるとして、他人の戸籍を取得すると、身も心も自分と他人をすげかえることができるのか。他人をだませても、自分の心まで上書きすることは―。
また、これまでに生きてきた体験から「私」が成り立っていると考えて、自分からそれを消し去り、接ぎ穂のように他人の人生や物語を生きたとしても、自分自身を愛せるのか。さらには、他人を愛せるのか…。
物語を追うにつれて、自分と他人の境界線があいまいになる錯覚さえ、感じていく。
と、ここまで考えて落語の「粗忽長屋」を思い起こした。
粗忽モノの八つぁん、熊さんが行き倒れの死人を熊さん自身だと思い込んで大騒動する話だ。下げは熊さんの有名なせりふ「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」。
とめどなく、堂々巡りのように考えさせられる。
全てを読んだ後、再び「序」を読むと味わい深い。
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