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結論は先延ばしで

宮沢賢治は「ほんとうのこと」を知っていたかどうかだって? うーん、全然分からない、ごめん。『銀河鉄道の父』(門井慶喜 講談社)も映画化されたし、タイムリーな人であるけど、残念ながらほとんど読んだことがない。
 
最初に読んだのはもちろん、児童文学である「注文の多い料理店」だったが、あまり好きにならなかった。次に目にしたのが「グスコーブドリの伝記」。全体に漂う暗い雰囲気が好きにならず、「セロ弾きのゴーシュ」はアニメで見た記憶がうっすらある程度、その後は宮沢作品は手に取っていない。なので、宮沢賢治談義は次の方に譲ろうと思う。すまんね。。。
 
正しいことも本当のことも、よくわからない。けれど、「正しいことをしたい」、と願う気持ちは昔からある。むしろそういう思いが強いほうだと思う。

でも、立場が変われば見える景色も違うし、正しいことも変わるので、人間社会においては絶対的な正しさなんてない、と思えて進路が選べなかったのが大学生の頃の私だ。その頃から数えて20年弱、正しいことも本当のこともよくわからないけれど、分からないままで生きることが前より楽になった・・・気がする。 
 
正しさは、立場だけではなくて時代が変わっても変わるものだし、本当のことも人によって変わる。だから、「間違えてもいい」のだと思う。間違えたと思ったらやり直せば良い。でも、出来れば間違えたくはいから、一生懸命考えて、選択する、行動を起こす、反省する。その繰り返しで人は成長するので、「本当のこと」や「正しいこと」はそれを知っていて、正しく行動することに意味があるのではなくて、「本当のことはなにか?」「正しいことは何か?」を自分の頭で考え、答えを探し求める過程に意味があるんじゃないだろうか。

だから、正しさや、真実は、分からなくても、相対的なものであっても、探し続けていれば良いのではないかと思う。
 
もうひとつ、正しさについて思うのが、個人の人生においては、自分が選んだことを正解にしていくしかない、ということ。職業選択にしてもそうだし、誰と付き合うかや、結婚するかしないかについてもそうだが、自分が選んだ道と違う方の道を、並べて比べることはできない。ただ、自分が選んだ道が正しかったと言えるように生きていくだけだ。また、不可抗力の事由についても、後からその出来事に意味を見出していくのは自分自身だ。それが起きたときには、不幸な出来事だと思ったことが、後々振り返ってみると、自分の成長のチャンスだったり、幸運な出会いの契機だったりすることがある。結局のところ、正解も不正解も、後々になってみないと分からないし、それは未来の自分の在り方次第で変わってくる。
 
というと、なんかすごくパワー系というか、超前向きな自己啓発本みたいな発言のようにも聞こえるけれど、要するに、ずっと後になってみないと、正しいかどうかも良いか悪いかも分からないから、とりあえず、ただなんとなく、でも、生きていたら良いと思う。後から振り返ったら、それは大事な充電期間かもしれないし、飛び立つ前の助走期間かもしれないし、なんとかその期間を通り抜けることで、その先に良いことが待っているのかもしれない。
 
だから、結論を下すのは先延ばしにして、とりあえず生きていこうよ。どの道が正しいのか、本当の幸せは何か、ああだこうだと考えながら、ときにはサボったり休んだりしながら、結論が分からない長編小説の旅を続けていったら良いんじゃないだろうか。
 
我々はその小説を時々、所々、読み聞かせてもらって、驚いたり感動したり、涙したりする存在かと思う。読者の反応を見て、加筆修正することで小説がより良いものになれば、それは私達の職業において「ほんとうのさいわい」である。
 
           (M.C)

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