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蒼色の月 #113 「第二回離婚調停②」

二回目の離婚調停。
大学進学の費用について、待ちに待った夫からの回答が来る約束の日。
窓の外は初冬の木枯らしが吹いていた。
相手方待合室に結城弁護士と私。
定刻を知らせに書記官が現れた。

前回同様、まずは夫の方から調停室に呼ばれるのだろう。
そこで夫は何というのか。
どうか、どうか、どうか進学費用は出しますと言ってほしい。お願いだから。私のためじゃない。あなたの血を引いた、実の子供のためなのだから。今日だけでいい。気持ちだけは、父親に戻ってください。
祈る気持ちで待合室に座る私に書記官が言った。

「すみません。ちょっとまだ始められないんですが、結城先生だけお願いできますか」

予定では先方が先で、その後に私と結城弁護士が調停室に呼ばれるはず。
まだ始められないってなんだろう…。
なんとも言えない胸騒ぎがした。
一人調停室に呼ばれた結城弁護士が、しばらくして戻ってきた。

「麗子さん…今相手方の弁護士と調停委員と話してきたのですが」

「はい。先生、なにかあったんですか?」

「健太郎さん、まだ来ていないようなんです」

「え?定刻はとっくに過ぎてますよね?あの人どうして来てないんですか?」

「先方の弁護士の話では、突然の体調不良で病院で点滴を受けていて今日はどうしても来れないと言うことなんです」

そんな馬鹿な。冗談じゃない。

「あの人、来れないんですか?今日は来ないって事ですか?」

「そのようなんですよ」

「じゃあ、長男の進学費用の返事はどうなるんですか?返事だけでももらえるんですよね?今日返事する約束ですよね?向こうの弁護士が返事するんですか?」

「それが…相手の弁護士がさっき電話で健太郎さんにそのことを確認したんですが」

「はい…」

「健太郎さんは、まだ考え中で電話で結論は出せないと言っているそうなんです」

「結論はまだ出せない?」

「はい…」と結城弁護士。

「進学費用は出さないって選択肢が、夫の中にはあるってことですか?この間、面と向かって息子に受験してもいいと言ったのにですか?受験はもう2ヶ月後なんですよ?進学費用が確保できていないのに、受験させろってことでしょうか…」

私はひどく取り乱した。
こんなことってあるんだろうか。
最悪、出す出さないでもめることは想定できたかもしれない。
そこで議論が長引いて、苦戦することは想定内だったかもしれない。
でもまさか夫が調停を欠席するなんて。
答えも出ず、本人もいないのでは議論すらできないということだ。
ありえない。
目の前が真っ暗になる。

「麗子さん、とにかく先方弁護士も待ってますから調停室に行きましょう」

調停室に入ると二人の調停委員と夫の弁護士がいた。
初めて見る夫の弁護士は、60歳を過ぎた男性弁護士だった。
ぱりっとしたやり手弁護士というよりは、どちらかと言えば町の弁護士という感じ。

「いやあ奥さん。私も驚きましたよ」

まるで他人事のように、夫の弁護士はそう言った。

「今日ね。時間になっても健太郎さん待合室に来ないもんだから、さっき電話してみたんですよ。そしたら急に体調が悪くなって、これから病院で点滴を受けるって。たいそう具合が悪いから入院になるかもしれないって。だから今日は来れないって言うんですよねぇ」

この弁護士は今日が、どんなに大事な日なのかなど眼中にないようだ。
二人の調停員が伺うように私を見る。

「体調が悪くなることは、誰でもあるんでそれはしょうがないことだとは思います…」と私。

「そうそう、そうですよね。はははははは」先方弁護士が笑った。

「今日来れないのは仕方ないとして、前回の調停から一ヶ月もあったわけで。今回で進学費用の返答をするという約束だったわけですから、当然回答すべきじゃないでしょうか。この一ヶ月の間に考える時間は充分にあったんですから」と私。

「いやあ、それは彼だって考えていたとは思いますよ、もちろんね。だけど今日は結論を出せないと、言っているんだから仕方ないんじゃないんですかぁ」と先方弁護士。

仕方ない…。
私が感情的になりそうなのを察してか、結城弁護士がこう言った。

「先生、麗子さんのおっしゃるとおり、今回の調停で返答をすると約束していたわけですから、守っていただかないと困ります。なにせ受験はもう2ヶ月後に迫っているんです。費用の確保もままならないまま、ご長男に受験させるというのは、いくら別居中とはいえ親の責任としてどういうものでしょうか。しかも、健太郎さんは先日、子供達に会いご長男の大学進学を認めるとはっきりご本人に言っているわけでしてね。それをなんの説明もなく一方的に、手紙でやっぱり進学費用は出さないなんてことを書いてきておりますが。常識的に言って許されることではないですよね。親として。そしてまた、次回の調停で返答すると約束をしているわけですから、その約束までこの期に及んで答えられないとは。健太郎さんお一人ならまだしも、先生が付いておられるわけですからね。きちんと約束は守っていただかないと。その辺の先生のお考えをお聞きしたい」

さっきまで椅子にふんぞり返って座っていた夫の弁護士が、バツの悪そうな咳払いと共に椅子に座り直した。

「健太郎さんが約束?ご長男に直接ですか?」

「ええ。そうです。お聞きになっていらっしゃらないんですか?」と結城弁護士。

「そんなことはちょっと…」と夫の弁護士。

「ご兄弟も二人同席してその約束を聞いていらっしゃいます」と結城弁護士。

「ともかく、ともかくです。ご本人が本日は体調不良で欠席で、ご本人が今日はお答えできないと言っているんですから。私ばかりそんなに責められても。私からはそれ以上、申し上げることはありません!」

「そんなこと言われても。約束は約束じゃないんでしょうか。しかもこんな法の場でした約束ですし。こちらは1か月待ったんです。もうこれ以上は待てません!考えるって何を考えるんでしょう。出して当然じゃないんですか?夫はあの子達の実の父親なんですから!出すよと子供本人に約束もしてるんですから」先方弁護士に食って掛かる私。

「まあ、まあね、奥さん。相手方の弁護士さんがこうおっしゃっているんだから、今日の所はしょうがないんじゃないんでしょうかね」

割って入った調停委員は、予定の時間が過ぎましたとでも言いたげに時計を見ながらそう言った。

しょうがない?
しょうがないで終わらせるの?
言いたいことは山ほど在る。

がしかし結城弁護士の顔は、取り敢えず今日はここまでにしましょうと私に言っている。
私は先方弁護士にぶつけたい言葉の数々を飲み込んだ。

「……はい、わかりました」とだけ言った。


待合室で、がっくりと肩を落とす私に結城弁護士が言った。

「ちょっと進学費用について、私なりに動いて先方弁護士とも話してみますから。麗子さん、受験まであと2ヶ月しかなくて、お子さんの気持ちを思えば冗談じゃないという切羽詰まったお気持ちなのはわかります。でもちょっと考え方を変えましょう。まだ2ヶ月あるんです。私も最善を尽くしますから」

私は結城弁護士に挨拶をし、相手方待合室を出た。
ふらふらと足下が覚束ない。
ずっと心配だった長男の進学費用。
その心配に今日やっと片が付くと、私は心のどこかで期待していた。
相手が夫一人では無理でも、間に弁護士や裁判所が入るのだから、きっと良い方に片が付くと私は思っていたのだ。
夫が裁判所に来てさえいれば、私の期待通りになったのかもしれない。
甘かった。
まさかの欠席とは。

どうしよう…
どうしよう…
どうしよう…
もう2か月しかないのに。
まさか受験直前で、長男に大学進学を諦めさせることになってしまうのか。
いやそんなことだけは絶対にできない。
例えば、夫と刺し違えたってそんなことは許さない。
車を走らせ家へと向かった私は、なんだかふっといやな予感がした。

いや、いや、まさか。
まさか、いくらなんでもね。

私はちょっと遠回りして、夫の設計事務所へ行き先を変えた。
事務所の駐車場には車が6台。
いつも通りに6台。
そこにはいつも通り、夫のベンツが私を嘲笑うかのように停まっていたのだ。夫は普通に設計事務所にいた。
信じられないことだが仮病だった。
仮病で調停を欠席…。
自分で起こしておいて?
そんなことして何の意味があるの?
もしかして私を苦しめるため?

信じられない。
もう許せない…。


mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!