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蒼色の月 #95 「過去からの電話①」

夫が家を出て、不倫相手の家に転がり込んでから11ヶ月。
ここ北海道の9月は、日中は過ごしやすいものの、朝晩はもうストーブが欲しくなる。また、あの凍てつく冬がやって来る。
しかし今年の冬は、離婚調停を控えている私にとっても、受験を控えている長男長女にとっても、今までとは全く違ったものになるのだろう。

離婚調停…

裁判所に行くと思うだけで身が震える思いがした。
夫のことなどもう結構、どうぞお好きにと逃げ出せたならどんなにいいだろうか。
子供達を学校に送り出し、私はそんなことを考えていた。

その時、携帯が鳴った。
それは、全く予想もしない相手だった。

「はい。浅見ですが…」

「奥さんですか?私直子です」

「もしもし、直子ちゃん?うわぁ、ずいぶん久しぶりだね」

「奥さん、本当にお久しぶりです。1年ぶりかな?とにかくほんとにお久しぶりです!」

「そうだね、今日はどうしたの?電話くれるなんて嬉しい」

直子とは今井直子。
夫の設計事務所で、度々仕事を依頼している今井左官の跡取り娘だ。
彼女は3歳の娘を育てる、シングルマザーだった。
今井左官は親族会社で、お父さん、お兄さん、事務に直子ちゃんの3人で経営している。直子ちゃんの娘さんとは、何度か遊んだこともある。

「奥さん、実はしばらく前から奥さんが設計事務所に来てないって、社員さんから聞いてて」

「うん…いろいろあってね」

「あの…所長さんの噂もいろいろ聞いてて」

「うん…そうだろうね」

「ずいぶん迷ったんですけど、奥さん困っているのなら、お知らせした方がいいのかなって、私」

「私に?どんなこと?」

「奥さんには、ほんとに言いにくいことで、私、一生言わないつもりでいたんです。こんなこと知ったら奥さん、ショック受けると思ったから。だけど奥さんが今、所長さんのことで困っているなら知らせたほうがいいんじゃないかって。なにかの助けになるんじゃないかって」

「直子ちゃん…良かったら話してみて。私は大丈夫!ちょっとやそっとのことでショック受けたりしないから」

気安くそんな言葉を吐くものではない。直子ちゃんの話の内容は、そのちょっとやそっと以上のことだった。

「こんな話でほんと、奥さんに申し訳ないんですけど…」

「大丈夫だってば!」

「…実は旦那さんが、設計事務所の所長さんになってから2ヶ月くらいのことなんですが」

「うん」

「ある日、所長さんに呼び出されたんです…。話があるって」

「話?直子ちゃんに?なに?」

「それが、二人だけで話したいって言われて…」

「え?二人だけ?それで会ったの?」

「はい。ごめんなさい…」

「いいよ、いいよ。それで?」

「うちの会社は、旦那さんの事務所に仕事もらってるから。とても断れる立場じゃないから。機嫌損ねたら怖いし、会いました。駅前のSAKURAって喫茶店で」

「健太郎、何の話だったの?」

「それが……」

「直子ちゃん、ちゃんと教えてほしい」

「はい。…俺の愛人にならないかって。月10万でどうだ?って言われました…」

「嘘でしょ…ほんとにそんなこと、あの人が直子ちゃんに?」

少なくとも、私が知っている昔の夫はそんなことを言う人間じゃない。

「ごめんなさい…奥さん、嘘じゃないんです…」

「健太郎、直子ちゃんに愛人になれなんて言ったの?月10万円でって?」

「はい…二人だけの秘密にすれば、絶対にばれないから大丈夫って」

「そんなこと…」

「月10万なら悪くないだろって。シングルマザーなんだし、子供にもお金かかるだろうから悪い話じゃないだろって」

「……」

「もちろん、お断りはしました。私にはそんなことできませんって」

「…そうだよね。なんて失礼なこと言うんだろね、愛人だなんて。そんなことがあったなんて、私全然知らなかったもんだから直子ちゃん、ごめんなさい」

「そんな、私が奥さんに内緒にしてたわけだし、奥さんは悪くないですから」

「それで?それで健太郎はわかったって?」

「私も悪いんです。その場で断ったんですが、その後の仕事もらえなくなったらとかいろいろ考えちゃって。本気で怒れなかったっていうか。逃げるようにやんわりとしか断れなかったから…」

「健太郎、諦めなかったの?」

「はい、その後も電話が来たり、うちの事務所に来たり2,3度は誘われました」

私の夫は、そんな男だったか。
義父が何人も愛人を作り、散々泣いてきた母を見て「俺は常に母の味方してきた」と夫は言った。
女遊びをやめない義父を、一番嫌っていたのは夫自身だった。
結局、蛙の子は蛙か。

「奥さんが離婚されるとしたら。これから所長さんといろいろ戦うことになるんじゃないかなって。私も離婚調停しましたから。こんな話でも、奥さんが勝つための役に立てばって思って、私、お話しすることにしたんです」

「直子ちゃん…ちょっと教えてほしいんだけど」

「なんですか?」

「こういうこと前にもあった?あの人が所長になる前とか」

「ありませんよ。今回が初めてです。たまにはそんなセクハラめいたこと、冗談で言ってくる人も中にはいますよ。私がバツ1だからからかって。だけど所長さんはそんなこと、一度も言ってきたことなんてありません。所長さんはそんなこと言う男と真逆のタイプだと思ってました」

「…そうだよね。私もそう思っていたから…。でも、直子ちゃん、ほんとありがとう。こんな言いずらい話、わざわざ。私のことなんか知らないふりして、黙っていることもできただろうに」

「なんだか旦那さん、所長さんになってから別人みたいですよね。人が変わったっていうか。顔つきが変わったっていうか。やることも変だし。昔の旦那さんと同じ人とは思えないって感じで」

「そうだね、社員もそう言ってた。直子ちゃん、いやな思いさせてごめんね」

「いいんです。あの、奥さん。それからもう一つあるんです」

「もう一つ?まだなにかあるの?」

これ以上なにがあるのだろうか。もう逃げたい…





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