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蒼色の月 #88 「新車」

世間はお盆休暇中だった。
しかし私の頭の中は、悠真の進学費用のことでいっぱいなのだ。一昨日、夫から届いた手紙が頭から離れない。

「悠真の大学費用は出さない」

もう私一人の手には負えない。この休暇が終わったら、すぐに結城弁護士に連絡するしかない。いよいよ、弁護士を入れることになる。一旦、法の場の戦いに足を踏み入れたら、もう本当に後戻りできないという恐怖心が私の中にあった。
普段なら、あっという間に終わってしまうお盆休みが、この時ばかりは長く感じる。

その日、私が近所のスーパーに買い出しに行くと、偶然設計事務所の社員の近藤とばったり出くわした。彼は20代で、夫の設計事務所に3年前に入社したばかりだった。

「あれ?奥さん?奥さんですよね!」

私が振り返ると、そこには懐かしい人懐っこい近藤の笑顔があった。

「近藤くんじゃない、久しぶりだね。元気にしてた?」

そう言う私を見る近藤の視線が、上から下へと落ちる。

「奥さん、なんだかまた痩せましたね。体、大丈夫なんですか?」

近藤の顔から笑顔が消えたところを見ると、きっと私の外見はまた悪い方へと様変わりしているのだろう。

「…いろいろあってね」

私は無理に口角を上げてみた。

「事務所のみんなも心配してますよ。奥さんちょっと話せませんか?急いでるならあれだけど…」

近藤は、悠真と6つしか年が違わない。大学を出てすぐに、うちの設計事務所に就職したのだ。私と近藤は、共に膨らんだエコバックをぶら下げ、とりあえず私の車に乗り込んだ。私は運転席に、近藤は助手席に。

「近藤くん、事務所でなにかあった?」

「あったなんてもんじゃありませんよ。A社の部長さんがカンカンでこの前事務所に乗り込んできて」

A社とは、この街の大手の設計事務所で、うちの仕事の4割はこのA社仲介で回ってきていた。そこの部長を怒らせるとは、夫の設計事務所にとっては死活問題なのだ。

「どうしたの?あの部長さん、穏やかな人だよね。なにをそんなに怒らせたりしたの?」

「所長があり得ないことやったんですよ」

「あり得ないことって?」

「A社の紹介で大手スポーツジムの設計やってたんですけど。駅前に新しくできるやつ。その施工主にA社をすっ飛ばして次の店舗の設計は直接取引しないかってもちかけたんです」

「え?あんなにお世話になってきたA社をすっ飛ばして?」

それは、考えられないほどの掟破り。

「その分安くするから、仲介のA社に内緒で取引したいって言ったらしいです」

「内緒でって、こんな狭い業界絶対すぐにばれるよね?」

それをやれば、絶対に儲かるのはわかっていても、この業界でそれをやるバカはいない。

「所長そんなこと、今まで一回もやったことないじゃないですか。だからみんなびっくりしちゃって。そんなことしたら死活問題だって誰だってわかってることなんだし。ほんと、所長おかしいんです」

「それでどうしたの?もちろん謝りに行ったんだよね?」

「所長、そのあと前所長からこっぴどく怒られて、首根っこ引っつかまれて2人で謝りに行ったって話です」

「じゃあ、仕事の方は大丈夫だったんだね?」

「はい。A社でも前所長に免じて、今回限りは許すって事になったみたいです」

私が夫と知り合ったのは18の春。そこから24年一緒にいるが、果たして夫はここまで非常識な人間だっただろうか。確かに、常識を知らないところはあった。でも、ここまでひどくはなかった。
もちろん、私が気が付かないだけで、元々夫の中にその素地はあったのだとしても。

「こんなこと言ったら、笑われるかもしれないんですけど」

「なに?言ってみて」

「不倫問題が起きてから、所長、目が怖いんですよね…。なんかなにかに取憑かれてるみたいな。バカバカしい話かもだけど、人がまるで変ってしまって。みんなそう言ってて」

「……」

「お祓いしてもらったほうがいいんじゃないかって…マジで。おかしいですよね、こんな話」

「おかしくないよ…私もそれは感じてたから」

「そうですよね」

夫の目がおかしいと、感じていたのは私だけではなかった。不倫したことで彼の中の、なにかの箍が外れてしまったのだろうか。顔つきは昔の夫とは別人だ。

「それからなんですけど、お子さん達のダブル受験間もなくですよね。所長、ちゃんと生活費とか、奥さん達に払ってるんですか?みんなすごく気にしてて」

「うん。なんとかやってる。これから話し合わなくちゃなんだけど」

「奥さん、知ってますか?実は所長、新車買ったんです」

「え?新車?」

「そうです。めっちゃ高いやつ」

「でも今乗ってる車だって、2年前に新車で買ったばかりなんだよ」

夫の車は家族で乗れるお手頃な国産のワンボックスカー。

「知ってます。でもこの前これ見よがしに、事務所に新車乗ってきて、みんなに自慢してました」

息子の進学費用は出せないのに新車?
嘘でしょ?

「なに買ったの?」

「あの…ベンツです」

私は、しばらく言葉が出てこなかった。

「ベンツ?なんで外車なんか買えるのかな?しかもベンツなんて」

経営者とはいえ、我が家は外車に乗れるほどの経済的な水準にはない。ましてこれから、3人の子供達の進学が控えているというのに外車など買っている場合じゃない。

「みんな心配してるんです。所長や奥さんの今までの生活ぶり、みんな見て知ってます。あんな高い車、乗るタイプじゃなかったでしょ、お二人とも。ましてお子さん2人受験で、これからお金かかるだろうに外車なんて。しかも新車なんて大丈夫なのかって。あのタイプならきっと800万以上するはずだってみんなが。きっと女に買わされたんだろうって。奥さんこのこと知ってるのかなって」

なんてことだろう。
なんてことだろう。
なんてことだろう。
息子の進学にはお金が出せなくて、自分はベンツ?
こちらはなんでもかんでも、値引きの特売品ばかり買って生きているのに。ベンツって、そのお金は一体どこから?

そんな大金はもちろん、家族のための通帳に入っていたあのお金しかないのだ。とんでもないことになる。このままでは本当に、とんでもないことになる。

「奥さん、俺達なんにも役にたてないかもしれないけど。なにかあったらいつでも連絡してくださいね」

「ありがとう。教えてくれてほんとにありがとう」

車を降り、何度も振り返っては頭を下げる近藤を、私は運転席で見送った。



mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!