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蒼色の月 #77 「サンドバック」

来るように指定された場所は、初めて行く市議会議員の事務所だった。
その議員の先生は、義父のゴルフ仲間で、急遽場所を借りたのだという。

なぜ市議会議員の事務所?
5人で話すなら、義父の自宅も、設計事務所の応接室もあっただろうに。
私は市議会議員の事務所の駐車場に車を停めた。

そこが私の決戦の場所。
もうここまで来てしまったら、私は行くしかない。
やれるだけのことを、精一杯やるしかないのだ。
ICレコーダーを上着の内ポケットに入れる手が震えていた。

大きく一つ息をしてインターホンを押す。

「はい、少々お待ちください」

事務員らしき女性の声。

「あれ?浅見さんじゃない?」

意外にも、ドアを開けてくれたのは私の古くからのママ友だった。
彼女は、長男のサッカー部の保護者の中の一人で、長男が小学生の時から試合の場でよく顔を合わせていた。
そしてそこが、彼女の職場であることを私はこのとき初めて知った。

「なんか、凄い雰囲気でみんな待ってるけど大丈夫なの?」

廊下を歩きながら、心配そうな彼女。

「…うん。後で話す」

私は案内された一室の前で立ち止まる。
ガクガク体が震えた。

そして、ドアを開けるとそこには異様な光景が広がっていた。

「麗子さんですね。さあこちらに座ってください」

入り口で立ち尽くす私を、そう促したのは年配の市議会議員だった。
私は促されるまま、真ん中の席に座った。
その私の目の前に並んでいたのは、健太郎、義父、女の母親、女の叔父、女の叔母、美加の従弟だった。

「…すみません。美加さんは」

美加がいないことに気がついた私は、目の前に並ぶ6人に向かってそう聞いた。それに答えたのは美加の母親。5人も味方がいるせいか、余裕のある様子でこう言った。

「あら、こんな修羅場になんか、かわいそうであの子は連れて来れないわよ。美加はね、とても繊細で傷つきやす子なんだから。とってもあなたとなんか会わせられたもんじゃないよ」

「美加さん、来ないんですか?」

「あなたが非常識に、うちに乗り込んできたことだけでもずいぶんと傷付いてるのに。あの子にこれ以上辛い思いなんかさせられないわよ。ねえ健太郎さん?」

「そんな…私は美加さんと話がしたいって言ったんです。そもそも美加さんは私と話すって約束したじゃないですか」

そんな私の言葉は、誰一人聞いていないようだ。

私は騙されたのか。
また騙されたのか。
美加が来ないなら、なんのための話し合い?
それにこの見たこともない部外者はいったい誰なの?

私の顔色をうかがうように、市議会議員が言った。

「まあ、せっかくこうやって集まったんだから少しお話ししませんか、麗子さん。みんな時間を作って来てるんだから。ね?」

「……」

7人を前にして、一人座らされている様はまるでこれから裁きを受ける罪人のよう。

「まずね、事の成り行きを私にお話しいただけませんか?」

仲裁にでも入るつもりなのか、市議会議員はノートを出すとみなにそう呼びかけた。きっと、話し合いを取り仕切ってくれとでも義父から頼まれたのだろう。

「……」

沈黙がどれだけ続いたのか、私は夫の方を見た。
しかし、夫はまるで他人事のように、我関せずと言った顔ですましている。
元々自分が引き起こしたことなのに、説明する気は全くなさそうだ。
しかたなく私が口を開いた。ここまでのいきさつを全部話した。

夫が保険の外交員である美加と不倫の仲になったこと。
夫が何の話合いもせず、一方的に家を出たこと。
今後どうするのか話合いを求めても応じようとしないこと。
家を出て以来、子供に一切会っていないこと。
子供達がどれだけ不安な毎日を送っているかと言うこと。
私が心療内科に通っていること。    等々

「健太郎さん、今の麗子さんの話に異論はありますか?あったらこの際だから話しましょう」と議員。

「いえ、別に」

「じゃあ麗子さんのおっしゃるとおりでいいんですね?」

夫は子供のようなすねた顔で、横を向いて頷いた。

「でもね!」

そう切り出したのは女の母親だった。

「でもね。健太郎さんと美加の間には、愛があるんですよ。真実の愛がね。真実の愛に勝てるものはないんですよ!愛より尊いものはないんですから。たとえ奥さんでも子供でも、二人の愛を邪魔する権利なんてないわよ!
そうでしょ?先生!」

睨みつける母親に私は言った。

「もちろん愛は大事です。だけど愛があれば、どんなことをしてもいいんですか?愛があれば、他人を傷つけてもいいんですか?愛があれば、何の罪もない人様の子供を苦しめても悪くないって言うんですか?」

消え入るような声だが、私は続けた。

「…だいたい私はあなたたちと話したいんじゃない。この件の当事者同士で美加さんと話したいんです。今すぐ美加さんをこの場に呼んでください。美加さんは私と話すと約束したんですから。約束は守ってください。ちゃんと約束しましたよね?お母さん!」

「それは本当ですか?美加さんは麗子さんと約束したんですか?」と議員。

母親は何も答えず、ぷいっとそっぽをむいた。

すかさず、女の叔父が口を挟む。

「俺はここに来る前に美加と話してきた。美加は健太郎君とこうなった以上奥さんには身を引いてもらって、自分が妻の座に座りたいって言ってる。そうしてもらう約束だからって。俺もそれが美加と健太郎君のために、一番いいと思うんだよなぁ。好き同志なんだから当然だろ。だいたいこんなことでもめてたら、設計事務所の評判も悪くなるよ。奥さんここはぐっとこらえてよ。みんなのしあわせのためにさ。あんたが黙って身を引いてくれれば、みんながしあわせになるんだからさ」

60は過ぎているだろう、大きな指輪に金のネックレス叔父と称する男が私にそう言った。

「あたしもそう思う。二人はもうできちゃったんだからしょうがないじゃん。黙って健太郎の言うことに従って今すぐ別れなさいよ。こんな母親じゃ子供たちもかわいそうだよね。あんまりみっともないことしなさんな」

美香の叔母が隣でそう合図値を打った。

「…離婚するにせよ!まずは夫婦で話し合って、これから先のいろんなことを決めて。子供達にも話をして。順序ってものがありますよね?そういうことをちゃんとしてから、付き合うなり、一緒に住むなり、再婚を考えるなりすべきじゃないんですか。
私たち夫婦は離婚の話合いすらまだ全くしていないんです。この人がしようとしないんです。しようとすると逃げるんです。まずは夫婦の離婚の話合いが先でしょう。子供の将来のこともあるんですから。離婚の理由も、離婚の話し合いも一切しないで別れろなんて勝手すぎませんか?そんなんで、だれがわかったなんていいますか?」

私のその言葉に議員だけが頷いた。

「この嫁はねぇ、うちに嫁に来た頃からなんにも役に立たなくってね。ダメな嫁なんですよ。事務所も全然任せられなくて、ほんとだめ嫁の見本なんですよ。ははははは。こんな嫁だとうちの事務所もいつまで持つか正直心配だったんですよ。家内ともいつもそう話しているんです。麗子には、なんにもまかせられないって」

女の親族の機嫌を取るように愛想笑いをしながら、義父がそう言った。

え?今のは何?
いなくなる私より、これから付き合っていく美加の親族と仲良くしておいた方が得だと考えたのだろう。

それともそれが義父の本心?
私はこの時の義父の言葉を、生涯忘れることはできないだろう。

お前だけが頼りだ。事務所をお前が守ってくれ。この事務所を守れるのはお前しかいない。お前がいなければ事務所は潰れる。影の所長として事務所を経営していってくれ。

そんな言葉を私に言い続けた義父。
義父は健太郎が私の所には、もう戻らないと踏んだのだろう。
それならばと、私に見切りを付けたのだ。
私はいいように利用されていただけだった。

義父はこの時この言葉で、完全に女サイドに寝返り、皆の前で私をばっさりと切って捨てた。

この義父の言葉が、私を地獄の底に突き落とす最後の決定打となった。

私は、完璧な人間でなんかない。
だから20年の長い結婚生活で、足りないところも、落ち度もあったのかもしれない。いや、あったのであろう。
だけど、だからといってここまで言われるほどのことを私はしてきたのだろうか。

もうそこから、私は何を言われたのかよく覚えていない。
私はそれから2時間近く、この人たちによって、言葉の暴力によってつるし上げにされた。
私はただのサンドバックと化した。
ただただ、滅多打ちにされるがままの私には、もう果たして狂っているのがどっちなのか、敵なのか私なのかわからなくなっていった。

言葉の暴力を受けながら、みんながこんなに私を悪く言うのだから、私はおそらく生きている価値すらないんだろうそう思った。

私が浅見家のためにと、生きた20年はいったいなんだったんだろうか。

言葉の剣で、心をずたぼろに切り裂かれている最中、私の脳裏に子供達の顔が浮かんだ。
ごめんね。あなたたちを守りたかったのに。弱いお母さんでごめんね。
一生懸命やったけど、お母さんもう駄目かもしれない。

言いたい放題、あること無いこと、暴言という言葉の剣でめった刺しにされた私の心からはどくどくと赤い血が流れた。

だれもそれを止める人も、その血をぬぐってくれる人もここにはいない。

2時間も経った頃だった。
さすがに見かねた議員の「今日はこれくらいで、麗子さんももうお疲れでしょうから」その言葉で、私の吊し上げはお開きとなった。

私の目の前で、義父と女の身内はお互いに笑顔で挨拶を交わし、それぞれに帰って行った。もうその部屋には私など存在していないかのようだった。

ぼろぼろの私は、そこから立ち上がれないでいた。もう抜け殻だった。

皆が帰った後、議員が私の前に座った。

「私はあなたのお義父さんの友達です。だから先ほどはなにも言えませんでした。でもね、あなたの言ったことは何一つ間違っていない。あなたの言うことが全て正しい。あの人たちに流されて、あなたは自分を見失ってはだめだよ」

私は突然心をこの手に取り戻したように我に返り、ぼろぼろと泣いた。
議員はそんな私をなだめるように見つめていた。

「先生・・私どうしたらいいんでしょうか」

私は敵となった義父の友達にそう聞いた。

「あなたはこれから、戦わなければならない。世の中には、きちんと不倫したことの責任を取ってから離婚する人もいる。慰謝料や子供たちの養育費やなにかね。でも健太郎さんは、どうもそうじゃないらしい。あのお義父さんの息子だから、仕方ないのかもしれない。このまま泣き寝入りしたら、あなたはとんでもないことになるでしょう。だからあなたは、自分と子ども達の権利を、あなたのその手で守らなくてはならないんだ。わかるね?」

私は泣きじゃくりながら頷いた。

「…先生…私守れますか?」

「戦いはおそらく大変だろうね。あの親子相手じゃ。でもだからって諦めたらとんでもないことになる。絶対に諦めてはだめだ。これはお義父さんの友人とか議員とか、そんなことどうでもよくて、一個人として言っているんだ。あなたのような人が勝てないなら日本の司法はおかしいと私は思うよ。まずはいい弁護士を見つけることだ。それで勝敗のほとんどは決まる。それほどいい弁護士を探すことは大事なんだ」

「はい…」

「それからね、健太郎さんは愛人を作ることで、これからは二つの家庭を養っていく責任ができたことに気付いていない。でもそれは実は大変な事なんだよ。あとはその大変さにいつ気がつくかだ。そして必ず後悔するときが来る。こんなに大変なら愛人なんて持つんじゃなかったってね。私はそんな人を何人も見てるんだ」

「ありがとうございます。ありがとうございます」

2時間に及んだ言葉のリンチの後、議員の真っ当な言葉は私の心に正気を取り戻してくれた。
義父の友達ならば、私などほっておいてもそれまでであろうが、こうやっ私に話をしてくれた議員の先生に私は感謝した。

「なにかあったらいつでも相談に来なさい。もちろんお義父さんに内緒でね。あのね・・麗子さん」

「はい」

「いいかい?事務所まで潰しては駄目だよ」

議員は最後にそう言った。

聞き流した最後の一言が、どんな意味なのかその時は全く考える余裕が無かった。が後にその意味を私は知ることとなる。
何年も何年も後に。

私は何度も頭を下げて、その事務所を後にした。

もちろん、私がその後その事務所に相談に来ることは一度もなかった。


しかし、私がこの事務所に来たことは、今後の私の長い戦いにとってとても大きな意味があったことを私はあとで知るのだった。
もしこの時私がここに来ていなければ。

それほどの出会いが、ここに来たことによって今後の私にもたらされることになる。


帰らなければ。私の命よりも大事な子供達の待つ家へ。



mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!