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ヨガの仙人と瞑想の川を渡る 

私は瞑想のやり方が全くわかりませんでした

長年続けてきたヨガクラスの最後には瞑想の時間もありましたが、習ったことはなかったのです

瞑想についてきちんと知りたい思い、スピリチュアル界隈では有名な方々の著作等、たくさんの本を読みました
でも、どれも抽象的な内容で頭に入ってこなかったわけです
宇宙の生命力と同調するとか、素人に言われても、どうしていいかわかりません

たまにわかりやすい言葉で方法論が書かれている本に出会って、目を瞑って「今、ここ」を意識をする、呼吸を意識することだと頭では理解出来ても、自分が瞑想出来ているのか判断することは難しいものです

身近にいる瞑想を語る人々は、魂を磨く作業だと言います
「具体的にどうしたらいいのか?」と聞いても、彼らと私の間には何やら見えない川が流れているようで、「一度こっち側に渡ってしまうと、もうそちら側には戻れないんだよね」と遠くを見つめるのです

そして、「そのうち分かってくるんじゃない?」と
結局、何も答えてはくれないのでした
言語にしにくい類の事なのかもしれませんが、話を聞くほどに輪郭はぼやけていくばかりだったのです

こうして、何が正解か、そもそも正解があるのかもわからないまま多分20年以上が過ぎたのでした

ある時、タイのサムイ島へ旅行に行った際、ヨガ体験をする機会がありました
山の斜面に建てられた野外のヨガフロアで、木々の隙間から海が見え、鳥や、日本とは違う蝉の声が聞こえる素敵な場所でした

先生は顔はネイマール選手に似ていましたが、年齢不詳のタイ人男性でした
坐禅から腕だけを使って逆立ちをしてみたりなど、ありえないポーズをたくさん披露してくれ、軽いノリで参加していた欧米人観光客も、それを見ているうちに段々静かになっていったのでした

「全ては基礎的なことの繰り返しによって培われる」と、とてもシンプルな筋トレを教えてくれ、続けていくように、と言われたのでした

穏やかな中にも緊張感のある時間となりました

翌日、その先生の瞑想のクラスがあるというので、こちらも参加してみたのでした

瞑想とはどんなものであるのか、丁寧に説明してくれたのですが、それは、私がこれまであらゆる本で何十回といっていいほど、読んできた内容とほぼ一緒だったのです

でも、ある部分が私の心に刺さってきました

頭の中で考えていることは、たいてい過去のことか未来のことである
瞑想中は現在に意識を集中し、そのための方法として呼吸に集中する
何かを考えることに意識が向いてしまっても
それに気づいたら、フワっと呼吸へ意識を戻せばいい

この「フワっと」というところが大事で、慌てて戻るとか、やってしまった!などと思う必要はないというようなお話でした

何かを考えてしまう自分を否定せずに、ただ、呼吸しているだけの今現在の自分に戻ってくればいいんだ、と私は受け止めたのでした

それまでの私は、瞑想中に呼吸に集中出来ず、余計なことを考えずにはいられなかったことに苛立って、
結局何をしていたのか、余計分からなくなっていたようです

そのため、先生の話す英語の説明が、どれだけ理解出来ているか分からない中でも、謎が解けたかのようにすーっと身体に入ってきたような感覚があったのです

その後一緒に実践してみると、出来たかもしれない、という手応えというか、「これでいいんだ!」と分かったような気がしました

それは頭と身体が一緒に納得しているような感覚です

ここで掴んだことを維持しながら、繰り返しやっていくことでもっと何かが見えてくるかもしれない、と心が躍りました

そういうわけで
言葉の意味としては理解したつもりのことでも、実は理解していない場合があることをあらためて実感したのでした

お読みいただき、ありがとうございました

追記:見出し画像は、
「みんなのフォトギャラリー」から選択し、
t0m0y0 さんからお借りしました
ありがとうございます!

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