見出し画像

マイ・セカンドライフ 14

14 『人生論ノート』など

 西田幾多郎、和辻哲郎らとも並び称される日本を代表する哲学者、三木 清(一八九七~一九四五)は『人生論ノート』を書いている。三木 清は、治安維持法で検挙され、獄死した抵抗の思想家でもあります。
 三木はこの本で一つの「幸福論」を提示しようとしています。同時代の哲学や倫理学が、人間にとって最も重要な「幸福」をテーマに全く掲げないことを鋭く批判。「幸福」と「成功」とを比較して、量的に計量できるのが「成功」であるのに対して、決して量には還元できない、質的なものとして「幸福」をとらえています。「幸福の問題は主知主義にとって最大の支柱である」「幸福を武器として闘うもののみが斃れてもなお幸福である」。幸福の本質をつこうとした表現ですが、どこか晦渋(かいじゅう)でわかりにくい表現です。「怒」「孤独」「嫉妬」「成功」など私たち誰もがつきあたる問題に、哲学的な視点から光を当てて書かれたエッセイで内容は難解です。
こうした晦渋な表現をとったのには理由があります。戦争の影が日に日に色濃くなっていく一九三〇年代。国家総動員法が制定され、個人が幸福を追求するといった行為について大っぴらには語れない重苦しい雰囲気が満ちていました。普通に表現しても検閲されて世に出すことができなくなると考えた三木は、哲学用語を駆使して表現を工夫し、伝わる人にはきちんと伝わるように言葉を磨き上げていったのです。
 厳しい競争社会、経済至上主義の風潮の中で、気がつけば身も心も何かに追われ、自分自身を見失いがちな現代社会。『人生論ノート』を通して、「幸福とは何か」「孤独とは何か」「死とは何か」といった普遍的なテーマをもう一度見つめ直し、人生をより豊かに生きる方法を学ぶことができます。経済的な豊かさや社会的な成功のみが幸福とみなされがちな今だからこそ、読み返されるべき本です。
 『人生論ノート』執筆直前に妻を亡くし「死」から書き始めた三木。冒頭の「死について」で「近頃死が恐ろしくなくなった」と語っています。人間誰もが恐れる「死」がなぜ恐ろしくないのか? 死は経験することができないものである以上、我々は死について何も知らない。つまり、死への恐怖とは、知らないことについての恐怖であり、死が恐れるべきものなのか、そうではないのかすら我々は知ることができないのです。そうとらえ直した時、「死」のもつ全く新しい意味が立ち現れてきます。
 トルストイ(一八二八~一九一0)の『人生論』もあります。いっさいの自己愛を捨て、理性的意識に生きることによってのみ、人間は真の幸福を獲得することができる――人間いかに生きるべきか? 現世において人間をみちびく真理とは何か? 永年にわたる苦悩と煩悶のすえ、トルストイ自身のこの永遠の問いは、本書にみごとに結実しています。鋭い観察力と、愛の直感と心の目で綴った、人生について内面的、哲学的な考察をしています。難解な論文ですが、解りやすく要約すると次のとおりです。一.人は他人の幸せを願うことでしか、自分も幸せになれない。二.そのような犠牲的にも見える愛情は、人間にのみ与えられている理性によるものだ。三.幸せを願う相手を選り好みしてはならない。なぜならAをより深く愛することは、Bを傷つけることになるからだ。四.このことは、実は皆が既に知っていることだ。美徳でも偉業でもなく、人間の生命には不可避な条件なのである。五.しかし、残念なことに、多くの人間は、自分だけの幸せを願う。自分だけを愛して欲しいと他人に望む。その結果、快楽を求め、死を恐れ、自分の幸せを妨害する他人と闘いあう。六.理性ある愛と、動物的エゴの間で誰もが苦しむ。
 五木寛之(一九三二~)は『人生の目的』の中で、生き続けることが大切であると述べています。
 
「人生の目的は、『自分の人生の目的』をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの『生きる意味』を見出すことである。変な言い方だが、『自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である』といってもいい。私はそう思う。そのためには、いき続けなくてはならない。いき続けていてこそ、目的も明らかになるのである。『われあり ゆえにわれ求む』というのが私の立場だ。(中略)自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくるということだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きる。
 しかし、これはなかなかむずかしいことである。そこで自分でつくった物語ではなく、共感できる人々がつくった物語を『信じる』という道もある。
<悟り>という物語。<来世>という物語、<浄土>という物語。<再生>という物語。<輪廻>という物語。それぞれ偉大な物語だ。人が全身で信じた物語は、真実となる」(五木寛之『人生の目的』)
 
 また、オーストリア精神科医心理学者のヴィクトール・フランクル(一九〇五~一九九七)は「どんな時も人生には意味があり、なすべきこと,充たすべき意味が与えられている」とし、次のように述べています。
 
 「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」(ヴィクトール・フランクル 『死と愛』 みすず書房、1961年。(原題『医師による魂の癒し』) (つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?