遥と静かなテーブル⑥
第6話:崩れゆく境界
目覚ましが鳴る音が、いつもより遠くに感じた。遥は、頭を重くしながらベッドに横たわり、無意識に手を伸ばして目覚ましを止めた。ぼんやりとした感覚の中で、昨日のポーカーのテーブルが頭をよぎる。静寂と集中、勝ち負けの感覚がまだ残っている。
時計を見つめる。仕事に行かなければならない時間が迫っているが、体はベッドから動こうとしない。今は、日常よりもポーカーのテーブルにいる方が、自分自身を感じられるように思えた。
「今日は、休んでもいいかな…」
そうつぶやくと、遥は再び目を閉じた。会社に連絡を入れ、今日は休むことにした。ポーカーに集中することで、現実から逃げ出せる。日常の重みがどんどん大きくなり、ポーカーの世界へと引き込まれていく自分を、遥は止めることができなかった。
昼過ぎに目を覚まし、身支度を整えた後、遥はまたバーに足を運んだ。日中のバーは、夜とはまた違う静けさが漂っていた。誰もいないテーブル、無音の店内。彼女はカウンターに座り、ぼんやりとその光景を眺めた。ここに来ることが日常の一部になりつつあった。
「また来たんだな」
見慣れた男が店に入ってきて、彼女に声をかけた。遥は軽くうなずいて応じた。
「仕事はどうしたんだ?」
「今日は…休んだ」
「ポーカーのために?」
その言葉に、遥は何も言い返せなかった。ポーカーのために仕事を休むなんて、少し前の自分ならあり得なかったことだ。それなのに、今は自然なことのように感じている。
夜が更け、またテーブルに集まるプレイヤーたちが現れた。いつものようにゲームが始まるが、遥の中では何かが少しずつ変わり始めていた。ポーカーを続けることが、次第に日常の一部になっていく。ポーカーと現実の境界が曖昧になり、彼女の中で両者が混ざり合っていく感覚に陥る。
ゲームに勝つことが重要ではなく、ただテーブルに座っていることが心地よかった。目の前にあるカードやチップ、それだけが現実であり、他のことはどうでもよくなっていく。
その夜、遥は大きな勝利を手にした。テーブルの上に積み上げられたチップを全て自分の手元に引き寄せ、周りのプレイヤーたちの視線を一身に受けた。それでも、心の中には何も響いてこない。勝っても負けても、何も変わらない。ただ、テーブルの静けさが続くだけだ。
「おめでとう」
男が静かに言ったが、遥は微かに微笑んだだけだった。勝利に意味を見出すことができないまま、彼女はまたカウンターに戻った。ポーカーと現実が交錯する中で、自分がどこにいるのか、はっきりとわからなくなっていた。
帰り道、冷たい夜風が顔に当たる。遥はポケットに手を突っ込みながら、空を見上げた。星のない夜空が、彼女の心の中を映し出しているようだった。ポーカーに救いを求める自分。日常を逃れ、ポーカーのテーブルに身を投じることで何を得ているのか。
「このままでいいのかな…」
そんな思いが頭をよぎるが、それを深く考えることはしなかった。家に帰っても、変わらない日常が待っているだけだ。それならば、ポーカーのテーブルに座り続ける方が、自分らしいと思えた。