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呼吸の泡

たぶんあの頃の私たちは、誰よりもお互いを近くに感じていて。
でも、誰よりもお互いを避けていて。
本当のことなど、なにひとつ話してなかったんだ。

だって、お互いの言葉があまりにも曖昧なことしか伝えないものだなんて、まだ、知らなかったから。


通学路は一本道で、誰もが同じバス。
私たちは大抵自転車で同じ道。

いつから私たちはお互いを知っていたのだろう。
いつから、知っていると言えたのだろう。

気がつけば、知っていた。

それは、別々の道を行ったはずの人で。
それは、意識するきっかけがないはずの人で。
意識した時には不快感しかなくて。

そして、私は恋とも友情とも縁を持つどころじゃない生活に埋もれていて。
平穏とは程遠い毎日。

家では寝る時間が貴重。
音楽で耳を塞いで。
心が壊れないように、ただ、じっと息をひそめる。

私はそんな日々。

いつから彼と私の間に時間が流れ始めたのか、
私は思い出せない。
きっと、もしも、彼が私を覚えていたとして、きっかけは彼も思い出せないのかもしれないと思う。

ただ、私たちの間には、お互いに触れることがなくとも、他の人には見えない強いつながりがあって。

誰かに説明することも難しい、誰にもみえない力で私たちは結ばれていて。

引力。

私たちは必要で手を重ね合わせることがあっても、
手を握ったりしなかった。

でも、彼は私が雨に濡れて、私の全身が人目に触れそうになったとき、隣にいた彼女の機嫌の悪さにかまうことなく、私に駆け寄って、私にその上着をかけた。

それは父親のような。
それは兄のような。

ヘッドホンをして、自転車を漕ぐ。
ポータブルCDプレーヤーから伸びる長いケーブルを引きずりながら。

あれは一体なんだったんだろう。

彼は私の何を知っていた?
私は彼の何を知っていた?

あれは一体なんのための時間だったんだろう。

不意の連絡。
近況報告。
身近な変化と対人関係と音楽。

別れの挨拶なんてなかった。

お前なら、本当に同じ道を来るなら。
きっとまた会える。
きっとまた会うと思う。

お前なら、俺よりはなんかできると思うよ。

ひとりで行くのはやめておけ。
大丈夫そうなら連れてってやるから。

信頼されているのか。
それとも、危なげと思われているのか。

しなやかに揺れる背中。
自転車を漕ぐ細い手足。

私の身体は家族の都合と方針で栄養失調。
眠れる時間の少なさを知っていた彼が提供してくれたやさしい時間。

それでも私たちには何もなかった。

浮名を流す彼と私の間には、ただ音楽と。


目にはみえない呼吸の泡。

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