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私たちは必ず「場」を取り戻す。【美術館再開日記9】

どうしても伝えたい。最初からではなかった。「作品のない展示室」の最終形が見え、来場者が実際にどう過ごしていくかを見つめるなか、日々ふつふつと思いがつのっていった、という方が正しい。

ひとり、または信頼できる少しの人たちと静かに過ごしつつ、
何かに思いを馳せる場。あるいはいろんな人がたくさん集まって、
未知のエネルギーが生まれてしまう場
それを手放しちゃダメだ、私たちは必ず取り戻すこれを伝えたい。

美術館は一般に前者のイメージが強いと思うが、現代美術系の展覧会では、後者のエネルギッシュ系がぐっと増えてきた。世田谷美術館の場合、そういう場を継続的に用意してきたのはパフォーマンス・プログラムである。特に初期。

ということを、突貫工事で「特集 建築と自然とパフォーマンス」を仕立てながら、まず自分が学んだ。初期のプログラムに一貫性はない。クラシックバレエとアフリカンドラムと歌舞伎とかの、なんというか混浴カオスそのカオスが時代と場の豊かさだった。でも企画展だって、昔は振れ幅がすごい。コレクションは今も相当すごい(12月6日まで、ちょうどそのカオス的側面を目撃できます。公式サイトではそんなこと書いてないけど↓)

「作品のない展示室」は、前回書いたように「ふだん見えないものを見せる」一貫性を持ちつつ、奇しくも静と動のふたつの場を共存させる企画になった。空っぽの前半では、各自静かに思いを馳せることができる。その次の暗がりで企画展ポスター195点をスライドショーで見たら、最後の「特集」で、ダンサーやミュージシャンと観客が創出してきたダイナミックなエネルギーを味わえる。

主要メディアではほぼ伝えられなかったこの全体のストーリーは、やがてフリーの個人ライターたちがそれぞれの視点で丁寧に書く記事のなかで、じわじわと浮かび上がることになる。そのことはもう少し先に書くことにしよう。

さて再開第6週である。私自身はボランティアの皆さんに渾身のレクチャーをし、最終日のイベントの企画を詰め、先輩に昔話を聴いた。どれも、さまざまな忘却に抗うためのものだった。


美術館再開31日目、7/7。渾身のレクチャー。15分だけど。

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都内のコロナ感染者106人、九州の豪雨被害拡大。

ボランティアの皆さんが半年ぶりに大勢で集まる。
新しい企画展が始まると、担当学芸員が
皆さんに解説のレクチャーをすることになっているのだ。
「作品のない展示室」は「企画展」ではないが
「企画」ではあるので、その意図や概要を話す。

主担当は、この館を設計した内井昭蔵のことなどを60分。
副担当の私は、15分。「特集」はおまけだから、そんなもんだ。

定員140人の講堂、でもコロナの今は40人しか入れない。
ゆえに1日に3回、レクチャー。

ボランティア担当は恐縮していたが
そういうのは好きである。
どんなレクチャーも3回やればコツが掴める。

ボランティアの皆さんはもっぱら
子どもと展覧会を見たりする活動がメインなので
パフォーマンスの類いには関心が薄め。
そういう人にこそ知ってもらいたいと思って、
「特集 建築と自然とパフォーマンス」をつくった。

15分、3回、
会場で上映しているスライドショーも使って、
少しずつ工夫を重ねて話す。

いやー熱入るわー。
ついについに、晴れて、
この美術館のパフォーマンス・プログラムについて
解説しているのだ。

展覧会だけじゃない、
この美術館の建築と環境は
音楽やダンスや演劇の場としても機能するように
そもそも設えられているんですよ。

ここでは、イベントは賑やかしのおまけじゃない。
静かに作品を見る時間と空間とは対照的な、
人々が一堂に集って熱を放出する場をつくる、
そういうことも同時にやれる稀有な館なんです。
そういうことをやり続けてきたんですよ。30数年。

スライドショー。
講堂でのパフォーマンスの後、外に出て
くぬぎの木の周りで練り歩く音楽家と観客。
1986年5月、韓国の「サムルノリ」の公演の写真だ。

開館記念ライヴのひとつだった。

(※撮影者は当時の当館スタッフの誰か。どんな感じのパフォーマンスかは、YouTubeでいい感じの紹介映像を見つけたのでどうぞ。近年の公演の様子です)

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同じくぬぎの木の周りで、圧倒的な映像と音と
ともに強烈なダンスが展開したのは2010年8月。
東野祥子さんのソロダンス。
その前年の2009年12月は、鈴木ユキオさんが
山ほどの落ち葉を敷きつめて踊った。
などなどなど。
(※写真撮影はまるやゆういちさん。)

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終わってから、
ひとりのボランティアが話しかけてきた。

「塚田さん、今までのようにはやれないわね。
お客に集まってくださいって呼びかけられない。
でもやってね。

もう予告とか予約とかなしで、
たまたま行ってみたらなんか始まってた、
そういうふうな出会いを私たちも楽しみに
すればいいんだしね。ああラッキーだったな、
っていう体験ね。

これからはそういうのもいいじゃない?」

ありがとうございます。
泣ける。
展示室からはくぬぎの木が見える。
1986年の写真のくぬぎは
もっとほっそりしていた。
34年かけて、くぬぎもセタビも少し肥えた。


美術館再開32日目、7/8。何とかいいかたちで、という後押し。

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福岡は久留米出身の同僚の目の下に隈ができている。
朝4時半まで実家付近の川の水位をチェックしていたそうだ。

都内のコロナ感染者76人。
展示室は開いたが、
不特定多数の人を集めるイベントができない。
当館の場合はたぶん10月あたりにやっとだ。

それでも、
「作品のない展示室」という稀有な場が
うまれてしまったことを記憶しておくための
イベントを、実はやろうとしている。

これまで、ある程度「かたち」が見えるまでは
ひとりで考えるのが普通だったが、
今回はふんにゃふにゃの状態から
とあるアーティストと手探りを始めてみた。

かれこれ3週間くらいか。
長いのか短いのかわからない。
密度の問題だから。

作品がないことで見えたことを忘れたくない。
今回連絡が取れたアーティストの皆さんとの
ご縁を結び直したい。

館内スタッフも作り手に回るような何かを
残しておきたい。

一般のお客さんとそれを共有したい。

最後のが難しい。
が、もはやどうも今までの意味での
「イベント」じゃない何かをやろうとしている、
と気付いてから頭フル回転である。

何度も企画書を書き直す。
ふにゃ、くらいの状態で同僚とシェアする。
短いコメントから長い立ち話まで
いろいろ返ってくる。
いろいろだが「なんとかいい姿で実現させたい」
という方向はぴしっとそろっている。

今しかできないことを。
それが確実にこの先につながるんだと
たぶんみんな思っている。
数年ぶりに話し込んだ同僚もいる。
けっこうすごいことである。

話しまくって書き直しまくって1日が終わった。


美術館再開34日目、7/10。「私どもは河原者ですから」。故・雀右衛門の凄み。

都内のコロナ感染者243人。
政府の「Go Toキャンペーン」7/22から実施。
(情報の空虚さがにわかに倍増。)

「特集 建築と自然とパフォーマンス」で
過去のパフォーマンスの記録写真や
チラシを展示したおかげで、
これまで聞いたことのない話が
いろんな先輩方からポツポツ出てくる。

ジュリアン・シュナーベルという
80年代に輝いたアーティストの個展に合わせ、
歌舞伎役者にご登場いただいたことがあった。

1989年のこと。登場したのは四代目中村雀右衛門。
当時69歳。展示室に舞台を設えた。

※雀右衛門がどんな生き方をした役者だったかは、以下のインタビューを。


ランチのとき、シュナーベル展を担当した先輩に
そのイベントについて何が印象に残っているか
きいてみた。名女形の踊り、どうだったのか。

先輩、もぐもぐをやめ、
一瞬遠い目、そのあと飲み込んでから語る。
雀右衛門はね、ウチのあの汚い荷解き場で
お着替えされたんです。

…は??

荷解き場。
資材やら使わない展示台やなんかを
ゴタゴタと積み上げてある、
バックヤードである。
なんというか、業者さんエリアである。

控室をご用意しますよ、と何度言っても
頑として固辞された。
私どもは元来河原者です、
立派なお部屋はいりません、
こちらで十分でございますって、
そのへんにささっと布を敷いて、
支度されたのよ。
それがもう、一番わすれられない。

その先輩は再来年で引退である。

シュナーベル展のチラシよりも
雀右衛門のイベントチラシの方が
目立つんだよなー、並べちゃうと。
とは、ふだん毒舌の自分でも
さすがに言えない笑。

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