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リアル文芸翻訳4

音楽業界に足を突っ込んだばかりのひよっ子通翻訳者時代にお世話になった先輩編集者S氏から「お前さ、大急ぎで書籍一冊できる?」と10数年ぶりに連絡があり、電話で打ち合わせたのちに引き受けたのがポール・スタンレー著『ポール・スタンレー新自伝 バックステージ・パス』。

実はこれ、4週間で翻訳を仕上げる計画で、S氏は当初翻訳者2人に半分ずつやらせるつもりでした。彼が提案したもう一人の翻訳者は私にとっては先輩的な立場の売れっ子翻訳者なのですが、彼女と私の翻訳スタイルが見事に真逆。そうなると編集者の最初の校正&校閲段階で文章の統一性を出す手間が増えると指摘したところ、納得したS氏は「じゃ、お前一人でやれるか判断してくれる?」と言って、原本のPDFデータを送ってくれました。

確認したところ、何とかなりそうだったのでOKを出し、早速原本を読み始めたのですが、なんと受諾して数時間後、登録している翻訳会社から児童書とミステリー小説の翻訳の打診が入ったのです! さすがに4週間で1冊翻訳する状態では他の書籍翻訳の掛け持ちは無理なので、泣く泣く断りました。

この本、自伝と銘打っていますが、ポールさんの人生経験に裏打ちされた人生指南本です。翻訳していて「なるほど〜」と思うことが多々あり、私自身も何度もインスパイアされました。

実はポールさんにはお抱えプロ編集者がいて、この人が本当に良い仕事をします! 文章のまとめ方も流れも分かりやすいし、読者に響きやすい。ただ、分かりやすいとは言っても、読者を甘やかすような分かりやすさではなく、読者の知性を尊重した上での分かりやすさ。こういう文章は読んでいて心地よく感じるものです。

そんなお抱え編集さんのおかげで翻訳作業はスムーズに行きました。ただ、この本の翻訳がメインとは言え、指名で入ってくる特定ブランドのマーケティング翻訳の単発仕事は非常に断りづらく、当初の4週間では全文終わらずに1週間ほど多くかかってしまいました。

この本の担当編集者M氏はこのとき初めて組んだフリーランスの方で、PDFでの校正も彼のおかげで初体験。M氏の校正は非常に細かく丁寧で、小さな“てにをは”ミスも指摘してくれるので安心感が大きく、さらに「ここはこんな文章の方がいいのでは?」と提案してくれたのも嬉しかったです。

翻訳文に関しては、啓蒙的な内容なので説教臭い文章にしないことを常に意識し、ポールさんが赤裸々に語っている部分では刺激的な言葉はできるだけ避けました。ほら、どんなに良い事を言っていても、説教臭かったり、刺激が強すぎたりすると読んでいてイラッとするじゃないですか?(笑) 読者の思考に自然に染み込むような言い回しを目指して日々試行錯誤しました。

ミック本はプロの編集者の手が入っていないために校正・校閲が非常に甘く、AC/DC本は著者本人がプロ編集者でもあるのですが、そんな人でも自分の文章を客観視することは難しいようで、文章の無意味な重複や意味が曖昧な表現が多々ありました。それを経てのポール本だったので、スピード的にキツイ部分はありましたが、翻訳作業はかなりラクでした。

ポール本を翻訳する頃には、原文の本質を見極めた日本語で文章を綴る重要性を深く実感していたため、自分では意識していませんでしたが、私自身の翻訳技術も少し向上していたようです。

翻訳の本質は「原文のメッセージを読者に伝えること」であり、「そのためにできる限り適切な表現を見つけること」です。

つまり、原文が「誰を対象に、どんな内容を伝えようとしているのか」を正確に掴まないとダメだし、読者の知性を見下すような“分かりやすさ”も避けるべきでしょう。後者はポール本が人生指南書寄りの自伝という内容だったからこそ気付いたとも言えますね。

さて、次回は途中で何度も頭をかきむしり、絶叫しそうになったフレディ本です。






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