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Re-posting No.077 高校三年生。秋から春へ(2)ダブルしんやの思い出

Re-posting No.077 高校三年生。秋から春へ(2)ダブルしんやの思い出

(No.077 書き直し再掲載します)

「ダブルしんや」の相棒、慎也、どうしているかな?

登校時、福島県立磐城高校に向かう登り坂で、後ろから「よう」と、呼びかけが聞こえた。僕とおしゃべりをしていたヒロシにかけられたものだった。ヒロシの「よっ、しんや」との返事は、隣にいる僕、小野信也に向けたものではなかった。後ろから近づいてきた、もう一人の「しんや」に向けられたものだった。

「しんや、同じ名前か」。僕が、ヒロシから「しんや」にしっかりと視線を移すと、彼は僕の視線を軽く外し、はにかみながらニヤッと笑った。どこか、人の優しさを感じさせた。名前は一緒でも、自分とはかなり違うものを持っていると、僕の直感は語った。

高校一年、後に友人たちから「ダブルしんや」と呼ばれるかたわれ「慎也・しんや」との出会いだ。瞬時に好感を持ったのは、同じ呼び名だったからではなく、人生で出会った他の友人たちと同じく、自分の嗅覚だ。

お互い「しんや」と、呼び捨てで呼び合う仲になるのに、沢山の時間はかからなかった。「しんや」がどう感じていたのかは、分からない。僕は、他の友人たちとは異なる独特の気持ちよさを感じた、彼を「しんや」と呼ぶときは。

高校二年生の時に同じクラスになり「しんや」と話す機会も多くなった。僕「しんや、オレ早弁しちゃった。パンと牛乳買いに行くの、付き合えよ」しんや「おお、分かったー、しんや」。ダブルしんやは、パンをかじりながら、たわいもないおしゃべりで笑い合った。

僕は卓球部に属していた。学校に来ている目的は、授業を受けるためではなく、卓球をするためだった。朝練から始まり、放課後も長い時間を体育館で過ごした。授業中はしょっちゅう寝ていた。まるで面白くない授業ばかりだった。教師が黒板に向かっているときは、ラケットの素振りをしていたものだ。そんな時、しんやはこちらに振り向き、ニヤッと笑って視線を下に向けて、軽く頭を振るのだった。「しょうがないヤツだ」愛情のこもった無言の言葉が届いた。

高三夏、所属していた卓球部の公式試合も終了して、クラブ以外の友人たちと過ごす時間も増えていた。体育会系クラブの面々は、肉体の鍛錬から頭脳の訓練に切り替えるのが、進学校の当然の了解事項の一つだった。大学を目指せ!その暗黙の了解事項に反発するでもなく、流れに乗れていない自分、しんやがいた。

高三秋登校時、こんなこともあった。坂道を上がる無数の黒の学生服に黒の学帽、男子校の日常。僕も黒の行進の一部分として、考えもなく足を運んでいた。目を前方に向けると、後頭部の群れの中に、一つ下がってくる顔は黒いキャンバスにポツンと白、目立った。しんやだった。

しんやから僕に向けられてきた言葉は「しんや、がっこ、行きたくねえや、付き合えよ」だった。「おっけ、しんや」大多数の黒の中の、白一点に加わり、向きを変えて坂道を下った。我々二人を振り返る黒い頭のいくつかは、正面からは一瞬白く見えたろうが、黒に戻り上に動いて行く。風が気持ちよかった。僕の成績はどんどん落ちていた。しんやの成績がどうであるかの関心はまるでなかった。どちらかともなく、ほぼ同時に言った「しんや、どこ行く?」

1960年代から1970年代、学生運動の風が日本中に吹き荒れていた。安田講堂占拠などで知られる東大紛争があり、その余波で1969年東大は入学試験を中止した。僕の三学年ほど上の事であった。他にも成田空港建設をめぐる政府と反対派の衝突、いわゆる成田闘争もあった。福島県立磐城高校にもその風が届いてきていた。大学はともかく、高校での学生運動は、全国的に見ても多くはなかったはずだ。

成田闘争の集会に参加したとの理由で、数名の同級生が停学処分となった。停学生徒曰く、模擬試験を東京で受験するために休む生徒は停学処分にはならず、数日政治集会に参加しただけの生徒を停学にするのは不当である。長谷川という生徒が校内でテントを張り、ハンガーストライキを始める。側を歩きゆく生徒が「おお〜、頑張れよ〜」と軽く声をかける。多くの生徒にとっては、自分たちの外にある世界の、近くで起きたイベントの一つの様相を呈していたとも言えた。

数日後、誰だったか、休み時間に校内の内庭で、学校を非難するアジ演説を始めた。マイクからぶつぶつと、音声がこだました。「停学をいますぐ解消せよ!不当である!」アジ演説を止めようと、数名の教師が集まり始めた。すると、30人ほどの生徒が、演説を続けさせろと、互いの肘を組み合い、演説をしている生徒を真ん中に円陣を作り、教師たちの介入を阻止した。

「おお〜、やってるぞ〜」二階の窓辺で見下ろすノンポリ(政治に関心のないこと)の生徒たちのひとりに、僕も加わった。授業開始のベルが鳴ってもまだ、あちこちの窓からの視線が、円陣と中央に立つ生徒と、戸惑いを見せながら佇む教師たちに注がれていた。綺麗に見事な円が描かれていた。

互いの肘を組んで作った円陣の一人に、しんやの姿を見る。いつもの飄々とした軽さはなかった。教師たちを見据えるのではなく、足元に視線を落としながらもしっかりと足を踏ん張り、隣の同志と腕を組み円陣の一部となっている姿は、僕の心のうちに熱い気持ちを湧き上がらせた。あいつ、こんな部分があったんだ。しんやをより好きになっている僕しんやがいた。

「授業を討論に充ててください」。そんな生徒たちの要求に応える教師もいた。討論授業となり、熱く語る連中もいて、しんやもその一人だった。成績が芳しくなかった僕も真剣に考えて、発言した。高校に入学して初めて、クラブ以外で、何かを学んでいる気分だった。

一方、そんな討論は多くの大学受験を目指す学生には迷惑だと主張するものもいた。「その意見も理解できる」と物知り顔で言いたくはない自分がいた。最後は己の感性を信じるか。「討論は迷惑」この意見は、共感できなかった。騒いでいる連中の話に、少しだけ耳を傾けてもいいのではないか。紛争に耳を閉ざす彼の言動を好ましく感じる時は来るのだろうか? 友として、彼と語り合える日は訪れるのだろうか?

粛々と進められるはずだった卒業式も、祝辞を述べる校長のマイクを生徒の一人がひったくり、体育教師の遠藤が演壇に上がり生徒を組み伏せ、無責任な歓声の中、終了となる。そんな時があった、そんな時代だった。

地方の一高校の中の騒ぎでしかない。東大紛争を頂点の一つとした学生運動も急速に沈静化して、大学入試は行われ、終わった。僕は予想通りどこの大学にも合格できなかった。しんやが東京教育大学(現・筑波大学)に合格したと知った。しんやの口から聞いたわけではない。誰かの「すげーな!」で、しんやの成績が良かったことが分かった。アイツ、いつ勉強していたんだ。僕はこの時、東京教育大学の名前を初めて聞いた。どれほどの偏差値の学校なのかも分からない高校生だった。

しんやの合格を喜ぶ気持ちが湧いた。しかし、心の底からの喜びではなかった。そして、嫉妬心もまるでなかった。なぜだろう?大学浪人は、当たり前の了解事項の一つの時代のせいか?「嫉妬」は共通項のあるものにしか感じない。しんやが「違う世界」に行きつつあるのを感じたからか?

実家は酒造業を営み、東京板橋区に酒販小売店も経営していた。兄と姉も板橋に住んでいて、部屋もある。浪人生となった僕しんやはいわき市を離れ、代々木ゼミナール本校に籍を置くことになる。グッバイ福島、ハウディ東京!

しんやは、僕の住む中板橋の隣駅、大山にあったアパートを借りる。僕とは全然関係なく、たまたまのことだ。僕は二年の浪人の後、家業の酒屋商売を継ぐ。お互い忙しくもなり、生活も違ってくるが、ずっと交流は続いた。

いつからのことだったか、しんやとは人生の中で、何となく離れた友人となってしまった。ダブルしんやのかたわれが元気に過ごしていることを心から祈っている。


「しんや、どこ行く?」学校をサボって二人で見た、空の青さ、海の青さは忘れない。青春の色は褪せない。

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