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No.093 浪人2年生。秋その1・母ユウ子と福岡の由理さん

No.093 浪人2年生。秋その1・母ユウ子と福岡の由理さん

1974年浪人2年目、ときは10月秋。奄美大島への旅の帰り道、フェリー船は名瀬港を夜に出発して鹿児島港を目指していた。船内で一泊、約11時間の船旅である。鹿児島港には朝8時に到着予定だ。

フェリー船内の食堂、隣には大島紬を着こなし、サングラスをかけた母ユウ子が座っていた。僕の前には、飲みかけの瓶のバヤリースオレンジジュースと紙コップがあった。母ユウ子の前には、紙コップではなく、グラスが置かれ中には水が入っていた。

母ユウ子は、ジュース類はほとんど飲まなかった。普段はもっぱら日本茶、それもかなり高級なお茶しか飲まなかった。船内のお茶は不味いに決まっている。水のほうがまし、それも紙コップはいやと言う事で、食堂の人にグラスをお願いしたのだ。

僕にとっては、ごく普通のいつもの母ユウ子の行動であった。食堂の人に、サラッと「グラスの方が、お水美味しいわね。貸してもらえるかな?」着物姿にサングラス、どこだかの美人の奥様にお願いされた食堂用帽子をかぶった中年男性は、にっこり微笑み、棚の上に手を伸ばしグラスを取るのだった。

数日前に、東京で浪人生活2年目を送っている僕に、福島県いわき市の母ユウ子から電話が入った。「信也、明日奄美大島に行かない?イカリヤマさんのお宅に二泊する予定」。僕が一応は大学受験を控えた「勉強が仕事」の立場を覚えていないようだった。

母ユウ子は、人生はどうにかなっていくと思っている節があり「遊ぶこと、楽しむこと」が人生の優先事項なのだ。花札と麻雀が大好きで、80歳過ぎまで、徹夜麻雀をしていた人だ。僕が中高生のとき、花札を始めると夕飯を作らなかったほどだ。そんなわがままが憎めない、似合う人だった。

奄美大島への旅行は、その数ヶ月前に知り合ったイカリヤマさんのお宅に招かれたものだった。この旅の話もいずれ書こう。帰り道、母ユウ子は東京を経て福島県いわき市に戻る。僕は東京に戻る予定だったが、ふと福岡に寄りたくなった。母ユウ子に伝えた。
「ちょっと福岡に寄ってから帰りたいな。とき子さんにも会いたいし、もう一人会いたい人がいるんだ」
とき子さんはかなり歳の離れた父方の従姉妹(いとこ)で、母ユウ子も知っている。「もう一人」について聞かれて答えた。

「お母さんに話してなかったかな?由理さんのこと。モコさんの友だちで、大学卒業後、実家の福岡に戻っているんだ。会いたいな」
母ユウ子は、モコさんが、僕の姉早苗の大学時代からの友人であることは知っていた。「由理さん」については、たった今発した僕の言葉以外の情報はなかった。僕とどんな関係かも聞かずに、一言も大学受験のことも触れずに、勉強頑張ってねなどは鼻から言いそうになく、答えた。
「そう、じゃ、わたしは小名浜(実家の場所)に帰るから、その由理さんととき子さんによろしくね。はい、交通費と二人へのお土産代」と、財布から何枚かのお札を渡してくれた。

このように書くと、一般にはどう思われるのだろう?わがままな息子と甘い母親の「バカな関係」、こんな話聞くのもアホくさと思われるかもしれない。
「バカな関係」そうではないと言おう。「豊かな関係」と取り敢えず言っておく。僕は、母ユウ子父武にお金そのものをせびることはまず無かった。何かをしたいと思うときは、それを伝えるだけなのだ。したいこと、欲しいものについて、嘘は言わない。人が動くと、それに伴うものがある。子どもはお金を稼げない立場なのだ。親がお金を出せなければ、子どもは手にできない。親がお金を出してもいいと判断すれば、子どもは手にできる。もし、そこに伴う複雑な思いがあれば、それもまた伝えればいい。共に考えていけばいい。それだけの事なのだ。この金銭感覚、人生哲学は、僕も受け継いでしまった。

「福岡に寄りたい」「では、寄ってきなさい」。母ユウ子と別れ、鹿児島から福岡へ、到着したのは夕方だった。僕は、まず、とき子さんに電話を入れた。「また、急やね〜」とにこやかにあきれられた。とき子さんに、もう一軒連絡を取りたい人がいる事を伝えて、電話を切った。

福岡にいる「もう一人」由理さんとは、恋人でも何でもない。知り合ったのは一年ほど前、盲目の歌手「長谷川きよし」のコンサートで出会った。青山学院大学のホール、モコさんに一緒にいた由理さんを紹介された。「マジックするんやてね。今度教えてね」はっきりモノを言う人だなとの第一印象だった。僕より3歳年上、彼女が大学3年生のときだ。

その後、中板橋の「溜まり場」に一度、モコさんと一緒に遊びに来た。この時は、映画「ウエストサイド物語」の話で盛り上がった。会ったのはもう一度、彼女がアルバイトをしていた渋谷の映画館に足を運んだ事があった。ズルをして見た映画は「燃えよドラゴン」だった。由理さんが東京にいるときに会ったのはこの3回だけ、いずれも短い時間を共にしただけだった。自由奔放で、様々なアルバイトをしている逞しい、綺麗な眼の上にメガネをかけた年上の女性が、僕にとっての由理さん、のちの連れ合い由理くんだった。

由理さんが大学卒業後、福岡に戻り、司法書士事務所に勤めたと耳にした。誰から聞いたのだろう、記憶にない。福岡の実家のほうに手紙を書いた。ラブレターではない、封書ではなくハガキで送った。近況報告のようなものだった。返事も期待しなかったが、すぐに返信がきた。初めてみる由理さんの字だった。笑った。下手な字で、誤字も多かった。間違いを気にしないで書き進める爽やかさを感じた。僕は大学浪人2年生、何につけ自信が持てない時期だった。そんな時、何か相手をしてもらえたようで嬉しかった。

僕が手紙を書く。観た映画や読んだ本などの事を書く。上手いとは言い難い字で書かれた手紙が、程なく返されてくる。7、8回そんな文通があった。手紙の中に、勤めている司法書士事務所での仕事が面白くないなどと、色々と素直に近況報告も書かれていた。

司法書士事務所に電話を入れた。電話に出た由理さんに言った。
「今、福岡。今日、泊めてもらえる?」図々しいにも程がある。
由理さんが家族と住んでいることは知っていたが、家族構成も家庭環境もまるで知らない。電話口の向こう側の由理さんが躊躇なく答えた。
「ええよ、家に連絡入れとく。夕飯まだやろね。家で一緒に食べよ。もうすぐ仕事終わるから、天神駅で待ち合わせしよか」
期待していた返事だった。どういうわけか、その返事しか返ってこないと思っていた。

・・・続く

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