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No.187 よろしく!小野先生(9)初めての中学受験指導・その2ダイキくん

No.187 よろしく!小野先生(9)初めての中学受験指導・その2ダイキくん

No.185 の続きです)

以前に酒屋商売をしていた一階部分を改装して(No.181)学習塾を始めた。その関係で入り口はガラス張りの自動ドアになっており、道路側から教室内はある程度見えるし、逆もまた然りである。この道路側の教室と、奥のかつて倉庫だったところにある教室が普段使っている教場である。

ドアの外に、自転車が止まった。自転車から降り教室に入ってきた女性に「こんにちは」と声をかけると「よろしいですか」との返事だった。塾の相談に来たお母さんと言うことは、何か意思があるように止まった自転車が既に語っていた。

数ヶ月前に入会していたコウジくんのお母さんからこちらの塾の話を聞いて、足を運んだとの事だった。息子さんダイキくんはコウジくんの同級生、共に近所の公立小学校に通う小学4年生だ。

ダイキくんのお母さんミチヨさんによると、中学受験も考慮に入れ大手進学塾に3年生の時から通わせたが、当人にやる気もなく塾もサボりがちで辞めさせた。小学校の授業が終わってから、家で遊んでばかりいるのも心配になり「塾にでも」通わせようとの、割合と耳にする学童保育の延長線のような動機だった。

なるほど、お母さんの気持ちは分かりました。塾生ひとり一人に対応して僕の判断で学習は進めるこちらの方針を短く伝え、後日ダイキくんと共にこちらに来てもらうことにした。ダイキくんがどんな子で、どんな気持ちでいるか確かめたかった。

ミチヨお母さんに促され、教室内に小さな足を踏み入れたダイキくんの第一印象は「おとなしい子」だった。「ダイキくん、学校は楽しい?」世間話のような僕からの質問にも、うなづいているかどうかさえはっきりしない反応から、ダイキくん自身はこちらへの通塾に、僕の直感だが、乗り気でない感じを受けた。

塾を始めた当初から、今に至るまで「親が行けと言ったから従った」との態度が見える生徒と付き合う気はない。ダイキくんには反抗的な匂いはしなかったが、積極的にこちらに通う自発的な意思もまた感じなかった。消極的な動機でも構わない。こちらに通ううちに「学習」の「人生」の楽しさを感じて行けばいい。その方向に向かわせる自信は持っている。

ダイキくんに伝えた。「お母さんはこちらで『勉強』して欲しいって言ってるけど、ん〜、こちらでは『勉強』はしないよ。と言うかオレは『勉強』って好きじゃないんだ。『強いて勉めさせる』より『学習』、習って学んで欲しいな、ダイキくんには。もし、嫌だったら塾に入らなくてもいいし、通い始めてイヤになったらいつでも辞めていいよ。自分の気持ちを大事にしてね。そこは最初に言っておくよ」

僕の「いつでも辞めていいよ」との、入会前には聞くこともあるまい、ある意味過激な言葉にミチヨお母さんは戸惑ったかもしれなかった。ダイキくんはと言うと、気が楽になったのか、顎を引いたようなうなづきが少しばかり大きくなったように感じたのは、気のせいだったか。帰り際に僕の耳に届いた「ありがとうございました」がこの日聞いた唯一のダイキくんの言葉だった。心が通った後の挨拶だったとの確信は、まだ持てなかった。

親御さんの意思に従った感も強かったが、ダイキくんはこちらに通い始めた。同級生コウジくん同様、ダイキくんも中学受験を目指さないとの方針だったが、算数国語共に教科書中心の指導を進めたわけでもない。算数は計算問題よりも、多くの子が苦手な文章題を課し、国語は読解問題や慣用句・諺の問題(No.132)を数多く取り組ませた。

同じ学年ながら中学受験を目指し始めたリョウくん(No.185 No.183)の指導時間と重なることもあった。国語の語句問題や社会の基礎学習は一緒に指導できたが、算数に関しては全く違うレベルだったし通塾回数も違った。そんな中でも子どもたちは親しくなっていったし、無口なダイキくんも徐々に穏やかな笑顔を見せるようになっていった。

ダイキくんが入塾して三ヶ月が過ぎた保護者面談の時だった。ミチヨお母さんが「小野先生、ダイキが中学受験をしたいって言ってきたんです。同学年のリョウくんに刺激されたのかもしれません。今からでは遅いですか?」

「それ、ご両親の意思じゃないんですか?ホントにダイキくんが言ってきたのですか?」相変わらずの僕の不躾な、いや率直と言っておくか、物言いだった。「ええ、私たちもあの子には私立中学に行った方が良いかと思い、進学塾にも通わせて結果的に諦めたところもあります。今回は、ダイキから言ってきました」

翌日、指導が始まる前にダイキくんに来てもらい、初めて二人だけで話した。「ダイキくん、中学受験したいってホントかい?」「はい」

一言だけで充分だった。

「わかった。すぐにはリョウくんと一緒のところの学習は出来ないけど、追いつくように頑張ろうか。まっ、イヤになったらいつでも言ってくれ。中学受験なぞしてもしなくてもどっちでもいい」

ダイキくんは照れ臭そうにニコッと笑い、口元に八重歯が覗いた。あれっ、八重歯があったんだ。僕に初めて見せるダイキくんの表情だった。少しは心が通いあえたな、確信があった。

・・・続く

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