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No.131 「ひとり暮らし・ひとり上手」の始まり

No.131「ひとり暮らし・ひとり上手」の始まり

No.092 連れ合いの由理くんの誕生日 / 別れ の続きです

2009年12月15日(火)連れ合いの由理くんに先立たれた。この時、僕は55歳、酒屋商売から学習塾経営に転身、宣伝もせずに生徒に恵まれて十数年が過ぎていた。18日(金)身内と数人の友人のみの葬儀を済ませるまで、16、17日の両日にした雑用、区の出張所に届けを出しに行ったことや、お世話になっていた近所の町医者さんに挨拶に行ったことは覚えているのだが、塾の仕事をしたのかどうか覚えていない。21日(月)からは確かに仕事は始めていた。

何かを食べて日常生活を送ってはいるのだが、その記憶も薄いのは当たり前なのかもしれない。我が身に起こった悲しみの事項と、ヒトの生理現象や世俗的な事柄との相性の悪さを、忘却のフィルターがちゃんと作動してくれているのだろう。個人的な感情を持ち込むべきではない仕事の印象もまた、あの時僕に起きた受け入れるしかない現実への感情との葛藤の末に、何処かに追いやられたのだろう。

葬儀の挨拶の時、言葉に詰まり挨拶できなくなる自分なんて、いったい今までこの小さな体の何処に潜んでいたのだろう。違うかな、よその世界からやって来て、ほんの一時期だけ寄生しているのかな。妙に気持ちのいい温かさの涙と、口角が少し上がるだけの形ばかりの、涙が伴う微笑みが、あの時の僕を少しだけ前に押してくれた。

由理くんが亡くなってどのくらい経ってからなのだろう、何を考えたり思い出したりしているわけでは無いのだが、突然に、目の奥の方から、生まれてから一度も経験したことのない熱い涙がじんわりと雨漏りでもするように溢れ出てきて、息もしていなかったのだろうか喉の奥が詰まり、ぐっぐっと嗚咽している自分がいる。

自分の癖なのだろう。そんな時は左手で左目まで覆う頬杖をして、グッと頭の重みを左手に預ける。そして「あぁーっ」と声に出してみると、またも、涙がことのほか温かく感じられ、嘆息できる自分が愛おしく、またも、ほんの少しだけ元気が出てきたよと、由理くんの幻に語りかけてみる。

これから死ぬまでは『おまけ』の人生だなと思った。それまでもかなり好き勝手に生きてきた、恵まれた人生だと言える、そう思う。体調が悪い時の由理くんの言葉が嫌だった「しんくん、わたし60歳まで生きられないよ、きっと。亡くなったら見守ってあげるよ。好きに生きたらええよ、わたしに気兼ねせんとね」相槌など打てるわけもないが、心の何処かに「そうかもしれないな」と想う自分を責めてみる。

「好きに生きたらいい…」どういうことなんだろう。どのみち人は器量以上のことはできないと知っている自分が恨めしくもあり、人の器量は大きくできると考える自分もいる。どこか生真面目な自分が「使命感を持て」と囁いてくる。とりあえずの使命感は、多くの人と同じように、投げ出さずに日常を送った。

まもなく入試を迎える生徒たちをはじめ、頼ってきてくれている家庭に対する使命感があった、あって良かったと思えた。由理くんが亡くなったのが12月、年に3度行う面談の時期だった。入試が終わったら、一応の使命を果たしたら、半年か一年か「ひとり放浪の旅」に出るのもいいなと思った。自分に向いている仕事と思ってはいたが、塾を辞めてもいい気分だった。

贅沢にも、もう少し自由が、欲しかった。自分を見つめ直す時間など日常生活の中でも可能とは知っていたし「自由」など儚いものだ。「Are birds free from the chains of the skyway? 鳥と言えど空路の鎖から自由なのだろうか?」とのボブ・ディランの歌のフレーズがこだましていた。

30名ほどの保護者の方と、中には生徒本人を交えた三者・四者面談を行い、塾の長期休業や廃業を考慮している旨を伝えた。次年度に受験学年を控える生徒・保護者の方達には、他の塾を見学に行き話を聞いて来て欲しい、アドバイスをするとまで伝えた。それで生徒がいなくなれば、気兼ねなく「放浪の旅」に踏み出せる。

思いがけない保護者の方たちの忌憚のない、ぶっちゃけた言葉の数々を聞いた。「先生(こう言われるのは好きではないのだが致し方ない)半年とか一年は長すぎませんか。ひと月くらい気晴らしに何処かいらしたらどうですか」キシダさんのお母さんから勧められた。「中2のウチの娘がこちらの塾から変わるのは嫌だと言ってます。どうしても辞められるのでしたら娘の高校受験が終わってからにしてください」コイズミさんのお父さんの言葉だった。よその塾を回り、パンフレットを持ってきたサワダさんご夫婦に、何処か気に入ったところがあったかどうか尋ねると「う〜ん、そうですね…」の後の言葉が続かなかった。

サワダさんのお父さんは、僕が塾の閉鎖も考えていると伝えた時に「先生のことだから、そんな事も言われるのじゃないかなと思いました。分かりました、他の塾を見てきます」との返答をいただいた。誠実な方だ。ふと、自分が折に触れ口にして生き方の指針にしていたのに、何処かに置き忘れていた「人生、意気に感ず」との言葉が靄(もや)が晴れるように立ち現れてきた。富や名声を求めるのではなく、相手の心意気に感じて行動するのが自分の生き様だったではないか。そこに産まれる熱き感動こそ、自分の求めるものだったではないか。

その夜、在籍している生徒全員の家庭に電話を入れて、塾を続けることと一年に二週間ほどのお休みをいただくこと、不安がありこちらの塾を辞めるなら入会金をお返しすることを伝えた。ただの一人も辞めなかったことは、やはり、僕を大きく支えてくれた。少しばかりは必要とされていたようだ。生徒は残ってくれて、二週間とはいえ気兼ねなく「放浪の旅」の時間も確保できた。

今までしたことがなかった自炊を始めた。コメは研いだ後に2時間以上は乾かし、その後に汲み置いたお水(水の良くないここではミネラルウォーターを使っている)に30分以上つけおきしてからご飯を炊く。母ユウ子から由理くんに引き継がれ、僕もこれを受け継いだ。亡くなる直前まで掃除を続けた由理くんの意思を引き継ぐように部屋を綺麗に保った。部屋に生花を切らさないようにしたので、花の名前が少しは分かるようになった。僕の4階自宅を訪れる友人知人は、整理整頓された部屋の様子に驚く。

由理くんが亡くなって初めて迎える受験シーズンも新学期も順調に乗りきった。夏期講習が終わった8月下旬から二週間、由理くんと訪れた初めてのヨーロッパ、イタリアを再訪する。初めの2泊だけローマのホテルを予約しただけの「気ままなひとり旅」だった。その後、毎年休みを取り「オランダ・アムステルダム&イギリス・コッツウォルズへの旅二週間」「フィンランド・ヘルシンキ&ラトビア・リガへの旅二週間」「アイルランド・ディングル半島への旅一週間」「ネパールへの旅一週間」「スコットランド・ドライブ旅二週間」「アイスランド・ドライブ旅二週間」「東北・北海道への旅」など、見知らぬ地で、ひとり思い出を作り、心癒される。

友人を、友人夫婦を、友人家族を自宅に招き、自画自賛の僕の手料理を振る舞い、マジック鑑賞を強制し、おしゃべりを楽しむ。若き友人たちも、由理くんの写真が飾られる部屋で、夜中まで付き合ってくれる。塾の卒業生たちや知り合った人たちと、外食を楽しむ。

「おまけのひとり暮らしの人生」だ。どうせだったら「人生、意気に感じ」て、自分の嗅覚を信じて気まま勝手に「ひとり上手」に生きていこう。その方が由理くんも喜んでくれるだろうと、勝手に解釈して、遺影に向かって「だよね、由理くん」と語りかけた。笑った写真を飾って良かった。僕が何を言っても「そやね」と言ってくれる。

学習塾の仕事は「使命」だ。こちらは大いに楽しみながら「意気に感じ」継続していこう。

新たな「使命」が熟成してきている。

長年、喉の奥にひっかかり続けてきた魚の小骨を、noteの記事投稿で少しは鍛えてきた文章力で取ろうとしている。細かくしんどい作業だろうが、楽しめそうだ。「ひとり上手」に一歩ずつ前に進んでみよう。

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