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No.191 僕の映画ノート(2)小学五年生から中学三年生まで・いわき市小名浜「銀星座」の思い出・「キネマ旬報」との出会い

No.191 僕の映画ノート(2)小学五年生から中学三年生まで・いわき市小名浜「銀星座」の思い出・「キネマ旬報」との出会い

No.189の続きです)

1965年昭和42年、僕は小学5年生になっていた。この頃、故郷の小さな街いわき市小名浜にも映画館が5件ほどあった。加山雄三主演の「若大将シリーズ」や怪獣映画の東宝系映画館「国際」高倉健や鶴田浩二主演ヤクザ映画全盛の東映系作品を主に上映していた「金星座」ロマンポルノ路線に入る前の日活作品上映の「磐城座」松竹系列作品を主に上映していた「地球座」そして僕が一番頻繁に足を運んだのが「金星座」の隣にあった洋画専門館「銀星座」が、その5件だ。

上映作品は週に一度変わり、2本立て3本立てが普通だった。一年は52週あるのだから「銀星座」での上映作品を全部観ると、一年で100本を超える映画を観ることになる。今とは違い、公開日は東京などの上映の後になっていて、当時の地方の映画館の経営事情からであろう、上映作品は娯楽映画が中心でいわゆる文芸作品はあまり上映されなかった。

酒造業を営んでいた実家は広い敷地があり、子供たちの絶好の遊び場だった。塾や習い事などが盛んな時代ではない。放課後には、毎日のように数人の友達が来て、缶蹴りやかくれんばなど夕闇迫るまで遊んでいた(No.084)。

友達の中で、小学5年生の時に同級生になったサダカズくんとは本当に気が合った。いつの頃からか、映画を特に洋画を一緒に観に行くようになり「映画を観ること」は僕たちの遊びの一つに加わった。姉がたまに買っていた映画雑誌「スクリーン」が家にあったことや、両親共に洋画が好きだったことも影響していたのだろう。

「銀星座」で上映される映画全てが、小学5年生の僕とサダカズくんが観たいものではなかった。そこはやはり男の子、アクション映画に惹かれた。当時は、いわゆる「スパイ映画」と「マカロニウェスタン」が、娯楽映画の宗主の座を争っている構図だった。

スパイ映画の草分け的作品「007(ダブルオーセブン)シリーズ」第1作、ショーン・コネリー主演テレンス・ヤング監督「007は殺しの番号」の日本公開が1962年である。この邦題は後に「007 ドクター・ノオ」と改題されたし「007」の読み方も当時は「ゼロゼロセブン」だった。十数年前、若き友人と映画の話をしていた時、僕が「セロゼロセブン」と言ったら「何ですか、それ!」と大笑いされた。

僕とサダカズくんが最初に触れた「007」はシリーズ第3作の「ゴールドフィンガー」だった。映画館を出て、二人盛り上がったのは、アクションシーンの話ではなく、女性が裸体に金粉を塗られベッドにうつ伏せになっている有名なシーンで、二人「すごかったなあ!」と夕暮れの街を、息を切らしながら走り家へと急いだ。

スパイ映画の「売り」の一つがラブシーンで、アクションシーン同様いつスクリーンに出てくるのかワクワクして待ったものだ。映画館に入る時「もぎり」のお姉さんから、諌めると言うか、呆れたような口調で「アンタら、こんなもん見るんだ」と言われた時は、映画を愛する気持ちが芽生えていたのか、心外であった。

スパイ映画以上に「マカロニウェスタン」は好きだった。「マカロニウェスタン」とは通常イタリアで製作された「西部劇」のことで、イタリアでは「スパゲティウエスタン」と呼ばれていた。高名な映画評論家の淀川長治さんが「スパゲティだと細くて弱そう」と言ったので「マカロニウェスタン」になったという話は映画マニアの間では良く知られている話である。

クリント・イーストウッド主演、セルジオ・レオーネ監督「荒野の用心棒」が、日本で公開された初めての「マカロニウェスタン」である。話の筋は黒澤明監督の「用心棒」のパクリで、あまりの模倣ぶりに黒沢明監督も呆れたということだった。

エンリオ・モリコーネ作曲の主題歌「さすらいの口笛」も大ヒットした。お年玉を貯めて僕が初めて買ったLPレコードが「決定版・マカロニウェスタンテーマの全て」で、擦り切れるくらいまで聴き、今もレコードラックの一番下の右端に収まっている。

僕とサダカズくんのみならず、クリント・イーストウッドは「マカロニウェスタンのヒーローの一人」との印象が強い、僕と同世代の人も多いのではないかと思う。フランコ・ネロ、ジュリアーノ・ジェンマ、リー・ヴァン・クリーフなどの俳優名をそらんじている方々とも夜を徹して語り合えそうだ。

中学校に入り卓球部の練習に忙しくなっても「銀星座」通いは続いていた。中学1年生の冬「銀星座」館内は冷えていて、僕はひとりスクリーンに向い左後ろ側に、学生服のつめ襟をさらに立てて「ファントマ・電光石火」を観ていた。この日は3本立ての上映で時間は夜の8時を回っていた。

僕の左側の通路に立ち、何かこちらをうかがっているような人影があった。映画の場面が変わり、スクリーンが少し明るくなった時、その人影が僕の方にグイと近寄った。僕の知った顔が認められた。後の中学2・3年時に担任となる木下先生が「こんな時間に、何をしているんだ」と、映画の上映中だったからか、声を潜め聞いてきた。

僕が映画を観ていることは両親も知っているし、つまらない勉強をするくらいならば映画を観たり本を読んだりする方が良いとまで言う家に育った身である(こちらの話をしたらキリがない。稿を改めます)。木下先生に反抗する感情も、悪いことをしている気持ちも全く無かった僕の口から出た答えは「映画を観ています」だった。

満点の答えでは無かったのだろう。木下先生は「もう遅い時間だぞ」と続けた。「はあ、映画、もう少しで終わります。終わったら帰ります」が次の僕の解答だった。先生は去っていった。苦笑いしていたものやら、渋い表情をしていたかは、暗がりの中で分からず残念に思った。

1968年中学2年生「キネマ旬報」なる雑誌の存在を知る。「スクリーン」に比べて小さいサイズながら、圧倒的に記事数が多い。「スクリーン」も毎年一回評論家による「洋画ベストテン」を掲載していたが、キネマ旬報は洋画の他に邦画のベストテンも選んでいて、投票する評論家の数もずっと多かった。「本格的」な雑誌に出会え世界が広がったように感じる一方で、選ばれていた「洋画ベストテン」を見て愕然とした。

第一位「アルジェの戦い」から「欲望」「戦争は終わった」「わが命つきるとも」「気狂いピエロ」・・・第7位までただの一本も「銀星座」で上映された映画が無かったのだ。わずかに第8位の「夜の大捜査線」第9位の「戦争と平和」を観ているだけだった。自分が触れることのできない所に素晴らしいものがあるのだと見せつけられる思いだった。

そんな思いを持ち続け中学3年生になった僕は「銀星座」で一本の映画に出会う。その映画を観終わった時に震えた。衝撃だった。

・・・続く

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