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読書は、読み手の精神に、その瞬間の傾向や気分にまったくなじまない異質な思想を押しつける。ちょうど印章が封蠟に刻印されるように。読み手の精神は徹底的に外からの圧迫をこうむり、あれやこれや考えねばならないーー(略)そういうわけで重圧を与え続けると、バネの弾力がなくなるように、多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。

――『読書について (光文社古典新訳文庫)』p.9-10 / ショーペンハウアー

2021年8月、社会人になってから読んだ本の冊数が100冊に達したことにワクワクしてnoteを投稿したことがありました。

それから19カ月、さらに100冊の読了本が増え、気がつけば計200冊を突破していました。

ええ、わかっています。読書は数で評価するものではないですし、200冊分の全てを理解しこの頭の中に叩き込むことができているわけではないことも。(そして何より古典的・芸術的な面で種々の価値を持つ本々を前にしながら、何と多くの活字を滑らせてきたことか!私は忘却的である前に目の前にある言葉を拾う努力さえしなかったこと幾ばくもあったのです!)

そんな何重もの不遜を犯しながらそれでもなお、私は私が読んだ本についてここで語ろうとしています。それは、100冊目までとそれ以降の間に見て取ることができる明らかな変化に、私自身驚きを隠せないからです。この驚きは何と言うに、「この本とここ(この100冊)で出会っていたのか!」という驚きです。私はもはやここで出会った本を知らない状態が思い出せません。それほどまでに私にとって重要な思い入れのある本々は、ここで出会っており良くも悪くも決定的な影響を与えているように思えるのです。

私はこの先、何を求めてどこへいくべきか。読書とは世界接続の試みゆえ、この問いに答えるには、私は今何に出会い、どこにいるのかを明らかにしなければならないように思います。これを探し求める自己点検によければお付き合いください。


読んだ100冊

まずは、読んだ100冊をリストアップしてみました。

100冊の投稿の時にピックアップしたものに比べれば、ご存知のタイトルが多く目につくのではないでしょうか。これまで読んできたものは全て読書メータで記録しており、ジャンルやテーマごとに本棚を作って整理していますが、以降では改めてその分類の一部を紹介するような形で、今般の100冊を概観したいと思います。

重要な出会い――カント

私はカント哲学が大好きです。これは、Twitterやこれまでの投稿を読んでくださっている方なら、既知とは思います。しかし、驚いたことに、私が彼の著作の主要部を読んだのはこの100冊でのことなのです。

代表作『純粋理性批判』も三批判の締め括り『判断力批判』もここでのことなのです。(『実践理性批判』、『プロレゴメナ』と筑摩新書の入門書は前の100冊以前でした。)

彼の哲学の魅力はなにか?――ひとことで言ってしまうならば、自由と科学が共存する道がそこにあることです。

岩波文庫からでている翻訳は『道徳形而上学原論』以外は読破しました。本当は『自然の形而上学』、『人倫の形而上学』、『人間学』まで読んでしまわねば彼が真に言わんとしたことはわからない(三批判はあくまで準備の書でしかない)はずなのですが、翻訳は全集しかありませんからどうしましょう?(読めずじまい)というのが現状です。

不変の問い

前の100冊にも今回の100冊にもアレント『人間の条件』が入っていましたが、そこで語られる思想のうち重要であるにもかかわらず、1回目には無知のためどうしても理解を諦めざるを得ない部分がありました。マルクスです。彼は何を読んでいても顔を出してきます。ベンヤミンにしても、ヴェイユにしても。  

また、社会人になってからというもの労働の問題は私にとって最も身近な問題の一つでもあります。そしてこの問題を考えるにあたって、やはりマルクスという巨漢を避けて通れないことは次第に明白になっていきました。

『資本論』はすでに岩波文庫の第一巻を手には取っているのですが、なにせあのボリュームです。およその雰囲気だけでもつかもうと周辺をあたってきたのがこの100冊でのことです。


相転移――ソクラテスとギリシア悲劇

マルクスを概観しようとしたときに、柄谷行人の『トランスクリティーク』を読みました。

カントとマルクスを扱うということで、大変興味深い本でした。もちろん、二人だけを扱うのではなく周辺の色々な哲学の話がありました。ここにプラトンの対話篇をダイアログを装うモノローグとしてウィトゲンシュタインの言語ゲームの観点から分析するくだりがありました。そしてこのときでした、プラトンを読まねば!と思い立ったのは。そこでは『メノン』での想起説が引き合いに出されており、数学との関係を述べられた著作であることを知りました。数学の普遍性というのも私の大好きなテーマですので、これは!と思い読むことにしました。

ここで、プラトンの面白さを確信した私は、産婆師ソクラテス大先生の言葉を追い続けています。


ギリシア哲学は面白い。最も愛智的でありながら読みものの面白さを両立している。
さらに私は私の興味を拡張してくれる一冊との重要な出会いを果たしました。

今度はギリシア悲劇です。この本をきっかけに『オイディプス王』、『バッカイ』を読むことになりました。

上のツイートとリンク先の率直な感想は『オイディプス王』を読まれたことがある方にはなんとなく共感いただけるのでは、と思います。

そして筑摩文庫版の三大悲劇作家の全集もすでに手元にあります。エウリピデス 『ヘレネ』『タウリケのイピゲネイア』、ソフォクレス『ピロクテテス』などつまみ食いでちまちま読んでいます。


とにかく私はギリシア古典の虜となってしまい、常に刺激的なインスピレーションをここから得続けています。そのため彼らの真似はどうしてもしたくなるものです。 


翻訳と言語ゲームと構造主義

ギリシア悲劇もカント哲学ももとは外国語で書かれたものです。ギリシア悲劇は押韻もあって形式美をも持つというのを先の解説本では知りました。つまり、真にこれらを味わうためには、原語で読めなければならないということです。
また、カント哲学やその系統(アレントやハイデガー)を読もうにも、ドイツ語の原義に戻って考察を始めるということがたまにあります。ここでも、彼らが言わんとすることをつかむにもやはり原語がわからねばならないという問題に直面します。
こういった事情からも私は語学にも手を出し始めるのです。

幸いTwitterでは外国語学習者の方々とも仲良くして頂けており、このおかげで勉強もちまちま頑張ることができています。


こうして語学をやっているとウィトゲンシュタインの影響もあってか、言葉そのものについても色々考えがめぐります。

翻訳が可能ということなら言葉には実在としての意味があるのではないか、言葉が意味を持つとはどういうことか、言葉と思考の関係はどうなっているのか……

彼に言わせれば私は"病気にかかっている"とのことですが、ここには構造主義との接点があることも次第にわかってきました。

チェルノブイリと技術の哲学の再興

訳合って22年の暮れに東北へ行っていました。あそこにはどうしても無視できない存在があります。通称、福一とか1Fとか言われるあれです。いい機会と思い、かなり前から積読だった『チェルノブイリの祈り』を読みました。

人の手が創り出す人智を超えた存在にどう向き合うか?――製造業の人間である私は、人一倍この問題に向き合う必要があることを自覚しました。私は決して科学技術を無邪気に受け入れてよい人間ではないのです。

人類の哲学がプラトンの注釈としての体系ならば、それは一つの視点つまり製作者(ポイエーテ)の視点を常に孕み続けているということです。このことに言及したアレント『人間の条件』は私にもう一度、技術について考えることを決意させます。 

人間の条件

アレントはさらに言います。多数性は人間の活動的生の条件の一つであると。この条件のもとで我々は人々の間にあって、己の正体を暴露し続けねばならないのです。この考えに触発されてのことなのかまったく不明ではありますが、私が読書会という社交場へ赴きその幅をさらに広げようとしているのは無関係とは思えません。広義にはTwitterの本好きさんからお勧めしてもらった本を読んで感想を伝えるのも読書会の一部だと思います。昨年夏頃の福永武彦との出会いもこうした”活動”の賜物です。

これらに加えさらに輪読または課題本形式の読書会も興味があるので、いろいろ参加するなり自分で企画するなりやってみたいと思っています。

おわりに

今回の100冊には、トルストイ、ドストエフスキー、カフカ、カミュなど所謂文学にカテゴライズされる巨人たちも入っています。彼らの物語もやはり面白いです。(今回の投稿では力尽きて語ることは諦めましたが……)

結局、読めば読むほどに面白い本にはどんどん出会います。それ故、一分でも空き時間ができれば本を読みたいというのは当然でしょう?とショウペンハウエルさんには言い訳しておくことにします。

Fin.🦚

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