東日本大震災から13年/全国料理教室協会エッセイ『食べたら書きたくなって』(5)気仙沼・唐桑の牡蠣
2015年3月某日。生まれて初めて降り立った一ノ関駅には、雪が降っていました。
ちょうど東日本大震災で被害を受けた東北への復興支援も第一段階をそろそろ終え、瓦礫撤去などのボランティアツアーだけでなく、観光ツアーを復活させようという段階に入った頃でした。
そのタイミングで来たのが、観光誘致のモデルツアーを同行取材し、企業のCSR活動の一環という切り口でレポートするという仕事でした。行き先は気仙沼、陸前高田、大船渡。すべて津波による甚大な被害を受けた地域です。
その頃は現地からの報道も少し減っていて、東京在住者にとってはもう4年、まだ4年といった感じで、とらえ方にも個人差が出始めていました。まだ東北に行くのは怖いと思っている人も多かったので、フランクな関係だったプロダクションの人に「もし嫌だったら、遠慮しないで断ってくれて全然いいからね」と気遣われるほどでした。
ですがわたしは「行きたい! やらせて」と即答しました。4年も経っていたけれど、津波の被害を受けた土地を一度はこの目で見るべきだと思っていたし、お金をいただく、つまり商売(仕事)ではあるものの、自分のスキルが役に立つなら是非にと思ったのです。
実は故郷は、東日本大震災が起こるまで日本最大の被害者数を記録した伊勢湾台風の被災地です。わたしは生まれていなかったけれど、たまたま母と結婚して3年目、まだ青年だった父の機転で濁流の中を間一髪で避難し、親戚一同誰も被害に遭うことなく命拾いしています。
そのため水害の怖さは物心ついた時から事あるごとに聞かされて来たし、故郷では60年以上経った今も慰霊祭が開かれている。それもあって津波の被害地を自分とは無関係の知らない土地だとは思えなかったのです。
とは言うものの、当時のわたしは自分のことだけで手いっぱいで、なんだかんだと言い訳をして結局一度も現地ボランティアに行きませんでした。当時やったのは都内にいてもできる些細なことだけ(支援金での協力、写真洗浄のボランティア、支援品を届ける人に物を託す、『助け合いジャパン』サイトでライター&編集のプロボノ)。そんな自分を不甲斐なく思っていたので、良い機会を与えてもらったと感謝して出かけました。
ところが都内でぼんやり報道に接しているのと現地を踏むのとでは、すべてが大違い。そもそも「4年経った」「観光事業ができるまでになっている」ということを勝手に拡大解釈していたため、「もう新しいビルや家がどんどん建っているのだろう」と思い込んでいたのです。
現実は一ノ関から気仙沼までのバスから見える景色に真新しいビルなどなく、瓦礫や廃材の山以外は更地、または半壊など損傷のある家やかろうじて残ったビルがポツポツあるだけ。仮設住宅で生活している人もまだまだたくさんいました。
その光景自体にもですが、報道の何を見て聞いて読んできたのだろうと、自分の鈍感さ、あまりにも他人事だった意識に大きく動揺しました。「もう」と言えるものは、見渡す限りどこにもなかったのです。
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行く先々でお世話になったたくさんの地元の方は、全員が生半可ではない被災に遭われていました。それでも驚くほど明るく楽しくツアーのお客様をもてなし、同行取材者であるわたしも同じようにその恩恵に預かりました。
ツアーは短期間の旅程にしてはかなり広範囲にあちこちを訪れました。津波の被害を伝えるリアス・アーク美術館、停電の危機のなか日本酒の蔵を存続させた男山本店、後にドラマで全国的に知られるようになる三陸鉄道、奇跡の一本松、大きなマグロやサメも見られた気仙沼漁港、雨のなかUGGのブーツをぐしょ濡れにして行った大船渡漁港etc.そのなかで食をテーマにしたこの連載にふさわしいものを一つ選ぶとしたら、気仙沼にある唐桑半島での牡蠣剥き体験でしょう。
それはいち早く事業を再開して、観光客の受け入れを始めた牡蠣工場を見学し、併設された食堂で名物の牡蠣料理をいただくというツアープランに組み込まれたものでしたが、興味深かったのが、豪華なもてなしをするのではなく「現地のありのままを体験すること」に需要が見出されていた点でした。
こういった現地の日常を体験するプランはその後に流行する町おこしや地方創生の場では当たり前になっていましたが、当時は珍しかったのです。ひょっとすると復興支援の場で試されたこれらの施策とその成功が、後へと続いたのかもしれません。
牡蠣剥き体験はまさに、現地の日常が旅の目玉になった好例でした。日々、牡蠣を剥いて出荷している人にとっては何一つ珍しいことはないけれど、都会から来た人のほとんどは未体験だったので、大いに盛り上がりました。お客様に混じってわたしも体験させてもらいました。
牡蠣剥きは専用の牡蠣ナイフを殻と殻の隙間から中に差し入れ、手探りで貝柱を切ったらそのまま手を返し、パカっと開けたら出来上がり、なのですが、そこはハマグリの産地生まれ、ビクついていた割には意外にすんなり処理でき、ホッと胸をなでおろしました。
そのときに社長と色々な話をしましたが、被災の苦労談とは関係ない内容で、一つおもしろい話を聞きました。
年末になると正月用の牡蠣の注文がたくさん入るのだけど、“殻付き”の意味を取り違え、上下の殻がついた、つまり蓋がされた状態の牡蠣を、下だけ殻のついた(店でおなじみの)そのまま食べられる生牡蠣の状態だと思って注文する人がかなりいる、と言うのです。
牡蠣を開けるには前述した専用のナイフが必要で、ほかのナイフや包丁では綺麗に開くことはできません。とはいえ一般家庭にそんなナイフはほとんどない。そのため、注文を間違えた多くの人からの「どうすれば専用ナイフ以外で開けられるか」という問い合わせが殺到してしまうのだとか。
ちゃんと注意書きしているのになあ、文字が小さいのかな? と困り顔で話す誠実な社長の様子がなんとも微笑ましく、そして風評被害にもかなり遭ってきただろうに、4年後にそれだけ注文が来ていることが実に頼もしく、嬉しく思いました。
牡蠣剥き体験も終わり、スタッフも一緒に全員でいただいた牡蠣づくしのコースはとても美味しく、牡蠣自体も潮味、ミルキィさ、身の膨らみともに十分で、ああこれが気仙沼の牡蠣なのかと、しみじみ思いました。もともと牡蠣は大好物ですが、この日以来、牡蠣を食べると必ず牡蠣剥き体験の情景が浮かぶので、丁寧に味わうようになりました。
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それから4年後。つまり今から2年前、あの時以来で宮城に行く機会があり、今度は仙台駅に降りました。
帰りの新幹線まで時間があったので、駅前にあったオイスターバーに入ってみたら、気仙沼産はなかったものの、気仙沼と同じように大変お世話になった大船渡産の牡蠣が出て来たので、大喜びしました。そしてその牡蠣をワインと一緒に味わっていたところ、あのとき移動のバスで聞いた話が急に思い出されました。
バスでガイド役をしてくれたかたは、共同経営者でもあった親友と地震の直後まで一緒にいたのに、そのあと親友だけが逃げ遅れ、亡くなってしまったそうです。そのときの体験をひとりでも多くの人に知ってもらうために、今回のように請われればガイドや語り部としてあちこちに出向いているとのことでした。今後も話し続けて、伝え続けて、震災や津波のことを忘れられないようにしたいと。
今回3月11日に当てて、東北の人でもない者が東北のことを書くってどうなんだろうという逡巡がずっとありましたが、わたし自身、両親が体験した太平洋戦争の話も伊勢湾台風の話も家族でいつも話題にしてきたことで、今も強く意識しているし、多少は教訓も得ています。若者である姪や甥も同じように小さい頃から話を聞いているので、うっすらとではあるものの、認識している。そのことを思い、あえて今回のテーマに選んでみました。
どんな出来事も、話さなければ忘れていってしまう。話したくない、忘れたいことなら良いけれど、忘れたくないこと、忘れてはならないことは、繰り返し文章にしたり、話して記憶に定着させたほうが、きっといい。あっという間の10年を振り返り、改めてそう思いました。
あの時お世話になったみなさん、今日も元気だといいな。わたしは今晩、あの日のことを話しながら、牡蠣を食べようと思います。
【追記】
昨年公開された映画『ただいま、つなかん』(監督:風間研一)は、このとき取材した牡蠣工場(現在は民宿)の現在が描かれています。偶然この映画の存在を知って懐かしさから観に行ったのですが、想像と違うその後で驚きました。興味のある方は併せてぜひ。
※全国料理教室協会サイト内で連載中の食にまつわるエッセイ「食べたら書きたくなって」の第5回『幸せは牡蠣で 気仙沼・唐桑の牡蠣』(2022年3月掲載)をタイトル変更して転載しています。
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