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土用の丑の日/全国料理教室協会エッセイ『食べたら書きたくなって』(15)うなぎのしっぽを食べていた頃

毎年やってくる土用の丑の日。「うなぎの旬は本当は冬」「あんなものは平賀源内が仕掛けたプロモーション」などと悪態をつくくせに、結局しっかり食べている。

子どもの頃、母方の祖父が趣味で漁をしており、なかでもうなぎを獲るのが得意だった。そのため我が家にとってうなぎはしょっちゅう食卓に上る日常食で、その頻度は郷土料理であるすき焼きより高いくらいだった。それなのに当時のわたしはうなぎが苦手で、食べられなかったのだから情けない。

「うなぎは栄養のかたまりなんやから、少しくらい食べなさい」。そう母にうながされても一向に食べる気になれなかった。いつも申し訳程度にしっぽの部分を少しかじったら、あとは双子同然に育った年子の次兄にみんなあげてしまい、自分は残ったごはんにタレがかかっただけの「タレ丼」をせっせと食べていた。むしろタレ丼が好きだった。

現在のわたしは、あの頃タダでも食べたくなかったうなぎにわざわざ大枚をはたいて贅沢したり、ありがたくお相伴に預かって舌鼓を打ったりしている。変わり過ぎにもほどがある。上京した頃から少しずつ味覚が育ち、いつの間にかうなぎが好物になっていたのだ。

好みの味は故郷でおもに食べられている「蒸さずに焼く外パリッ・中さっくり・味つけはしっかり目の甘辛」。だが故郷にいる時はしっぽをかじっていただけなので、舌が記憶していたわけではない。このタイプのうなぎを好きになったのは、今も銀座にある一軒の店の影響が大きい。

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知人に連れられてその店に初めて入ったのは、20代前半の頃。銀座とは思えぬ庶民的な店構えのうなぎ専門店で、もうもうと立つ煙と香ばしい匂いが道いっぱいに流れていた。大将は関東出身で裂きは背開きだったものの、焼き方は関西風の蒸さない直焼きにこだわっているという珍しい店だった。

なるほど出てきたうな重を見ると、うなぎは食欲をモロに刺激する濃い目の照りをまとい、わずかに端の焦げた姿もいっそ好ましい。食べてみると、おお、これこれ。パリッと皮がクリスピーで、身もふわふわではなく直焼きらしいさくふわ。濁りはないけれど野趣を感じる味が絶妙に口に合った。

東京に来てふんわり柔らかで上品なうなぎを何回か食べ、「これはこれで悪くないけど、もう少しパンチがほしい……」とやや物足りなく思っていたわたしに、この店のうなぎはぴったりだった。そもそも育った環境からして、わたしがうなぎに求めていたのは品の良さではなかったのだ。

古い日本映画に出てくるような木造の小さな店舗も含めてこの店のファンになったわたしは、ランチなら若者でも気軽に食べられる価格(確か当時1000円台)であることを知り、やがてこの店で「ひとりうな丼」をするようになった。今思うと若い女の子には似つかわしくないが、池波正太郎の食エッセイが愛読書だったその頃のわたしにとっては理想的な店だったのだ。

「おひとりさま」という言葉も「自分へのご褒美」という言葉もまだなかったけれど、たまに午前中から銀座で映画を観たあとふらりと立ち寄り、ランチタイム終盤で客のいなくなった店で一人うな丼をほおばる時間は実に充実していた。こんな風にわたしは都会で暮らしたかったんだと実感した。

ときにはさらに頑張って、瓶ビールを1本頼むこともあった。うな丼についてくる自家製のぬか漬けはちょっと漬かり過ぎているときもあったけれど、その酸っぱさがむしろビールのアテにはちょうどよく、銀座の裏通りで静かに昼飲みを満喫した。

背伸びして有名店を巡ったり、幸せの青い鳥状態で故郷の隣りである名古屋のひつまぶしに目覚めたり、取材で地方の隠れた名店に行くようになったりするのはもっと後のことである。その古い店舗はずいぶん前になくなったが、お店自体は近くに移転し、今も繁盛している。

しかし、今こんなにうなぎを好きになって思うのは、小さいうちにうなぎを食べられるようになって(そもそも単なる食わず嫌いだった)祖父のうなぎをちゃんと食べてあげればよかった、ということだ。「おじいちゃんのうなぎ、おいしいね」と一度でも言ってあげればよかった。

今さら後悔しても詮ない事だけど、うなぎを前にするとついそう思ってしまう。そんなわたしにとって土用の丑の日は、冷えたビールを飲み、うなぎを食べながら祖父の思い出を話し、「おじいちゃんごめんねー」と明るく詫びながら、あの頃に感謝する日なのだ。

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大好きだった祖父は、うなぎ獲りの名人だった。

片側を伊勢湾に囲まれた三重県のなかでも、故郷である北勢地域は揖斐・木曽・長良川という木曽三川も流れ込むエリアで、豊富なプランクトンが生息する海水と川水の混ざった汽水地域である。

海で生まれて川を遡上するうなぎにとって格好の餌場である河口部は、シジミやアサリ、ハマグリなど貝類の産地であり、そこから岐阜県にかけて広範囲に流れる長良川は天然のうなぎ、鮎、サツキマスの漁場として知られている。

祖父は国鉄(旧JR)に勤務し、自分の仕事に誇りを持っている実直な人だったけど、その一方で、休日はすべて漁に捧げていた。釣りを趣味にする人は珍しくないが、祖父は投網で鮎を、仕掛けでうなぎを獲る漁を専門にしていた。趣味というより生き甲斐で、精神はほとんど漁師だったんだろうと思う。実際、多くの人は祖父のことを本職の漁師だと思い込んでいたし、わたしも小2くらいまでは祖父が会社員だと知らず、友達に「おじいちゃんは魚を獲る人」と言っていた。

レジャー焼けとは明らかに違う年季の入った赤銅色の肌をし、腰までのゴム長を履いて漁に向かう明治生まれの祖父は、世代の近い銀幕のスター上原謙にも負けないくらい長身痩躯の上にとびきり美形だった。けれども人柄は華やかさとは無縁の地味で寡黙な人で、「おじいさんは人間が苦手」「魚と話してるほうがいい」といつも言っていた。大人がふたりも乗ればいっぱいになる小さな舟を一艘もっており、休みになると朝から漁に出ていった。

近所に住んでいたわたしは祖父母の家にしょっちゅう行っていたが、だいたい祖父は川に行っていて留守か、台所で獲れた魚を捌いているか、玄関先で破れた投網を器用に繕っているかだった。身内の欲目でなくかなり腕のいい週末漁師だったようで、長女である母によると地元一の料亭がそんな祖父を見込み、良いうなぎが獲れたら買い上げるので必ず持ってきてくれと頼んでいたという。

とはいえ「魚を獲るのは道楽」と言い切っていた祖父は、お金のために漁をしていたわけではない。うなぎや鮎が獲れると我が家や叔母の家だけでなく、いろんな人に気前よく配っていた。大漁のときは愛車だったスーパーカブを駆り、離れた場所にある父の実家まで届けに行って父方の親戚も喜ばせていた。もちろん受け取った人が困らないように祖父自身の手で下処理は済ませている。そんな姿を見ていたので、わたしが「料理は女性がするもの」「男性は包丁が使えない」という先入観を持つことはなかった。

人間が苦手と言っても、祖父はけっして偏屈な人ではない。お酒を飲めば陽気になって十八番の黒田節を歌い、わたしを含めた大勢の孫のことも可愛がってくれた。たまに舟に乗せて沖まで泳ぎに連れて行ってくれたし、もちろん釣りも上手いので手ほどきもしてくれた。祖父は我々にとって“川の先生”のような存在でもあったのだ。

そんな祖父から届くうなぎは、今思えば我々にとって特別なうなぎだったといえる。現代の言葉で表現するなら“尊い”うなぎだ。なのに当時のわたしはいつも「え〜、またうなぎ?」「あーあ、食べるもんあらへん」と母にブチブチ文句を言っていた。

祖父に向かっても「おじいちゃん、ウチうなぎ食べられへん」「鮎キライ」と無神経に言い放っていた。どちらも天然もので、獲れたてだったのに……。だが温厚な祖父はとくに傷ついた様子もなく「子供はあんまり食べんかな?」「おじいさんも食べるより獲るほうが好きやしな」と優しくフォローしてくれた。ああ、おじいちゃんゴメン、今ならいくらでも食べるのに!

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月日は流れ、1995年。故郷の至近距離に治水と利水を目的にした長良川河口堰ができた。

生態系が崩れることを危惧する人を中心に激しい反対運動もあったことは知っていたけれど、その頃すでに東京に住んでいたわたしは若者だったこともあって、地元の大事件にほとんど無関心だった。素朴な景観の川のなかに無骨な施設が立つ醜さに腹を立てたくらいで、その是非について深く考えることはなかった。伊勢湾台風をはじめ多くの水害に見舞われてきた土地なので、水をコントロールできるのなら良いんじゃないの、という程度にしか受け止めていなかったのだ。

河口堰が完成した年、帰省したわたしはお土産を届けに祖父母の家を訪れた。祖父は80歳を過ぎても現役で漁に出ていたが、その日は家にいて新聞を読んでいた。「おじいちゃん、ただいま。元気やった?」と声をかけると祖父は顔を上げ、「ああ、美紀ちゃん。帰っとったんか」と返してくれたけど、その姿はいつになくしょんぼりしていた。

「河口堰ができてから、うなぎが全然とれんようになってしもたんや。おじいさん、魚が獲れんとまったく元気出えへん……」

祖父は100歳過ぎまで長生きし、施設で亡くなった。最後にお見舞いにいった時も、わたしに「こんなとこは退屈や」「川を見に行きたい」「川に行って魚を獲りたい」と言っていた。

河口堰ができて、すでに30年近くが経った。祖父が愛した川にうなぎは戻ってきたのだろうか。


※全国料理教室協会サイト内で連載中の食にまつわるエッセイ「食べたら書きたくなって」の第15回『うなぎのしっぽを食べていた頃』(2024年7月掲載) を転載しています。

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