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「星の王子さま」 サン・テグジュペリ

下手な絵だな。

そう思っていた。描き方に魅力を感じなかった。どうしてこの童話が世界に広まっているのか、よくわからなかった。遠い昔、図書館の児童コーナーでページをめくった記憶がある。酔っ払いと商人の顔が嫌だな、と思って最後まで読まなかったような気がする。

ベストセラーだから、という理由で本を手に取ることはまずない。

それは幼い頃のまま変わらない。当然、たくさん売れて大量印刷された本と出会う確率は物理的にあがる。

そんな理屈など微塵も考えなかった頃も、今も、本を手に取る基準は単純明快。出会うか出会わないか。おもしろそう。読みたい。それだけ。ごくまれに書評などの記事を目にして、アンテナにひっかかればメモをとる。すぐに購入することはあまりない。

必要な本は向こうからやってくる。

多方面に好奇心が頻繁に発動される私が、気になった本を片っ端から購入したら、他のことが何もできなくなる。それは自明。なので人生の幅と質を快適なものにするために、あえて急がない。

出会うべき本には必ず遭遇する。いつも絶妙なタイミングで。

「カレーを一緒に食べよう」と誘われて友人宅を訪ねた。時折ピアノを弾かせてもらう半地下の部屋に、古い本が静かに並んでいる棚がある。そこに「星の王子さま」は並んでいた。すすけてぼんやりとくすんだ箱カバー。物語をほとんど覚えていない。

他の本4冊と伴に帰宅。その日の夜に読み始めた。完読したのは翌日。やっぱり絵が好きではない。煙と太陽と人物の表情がやや不快感すら触発する。

自然のサイクルから離れすぎた暮らしを営む人間達は「死」または「破壊」を忌む。だからこういう絵本を切なくて悲しくて美しい、と思うのだろう。

私は死を悲劇と捉える時期は通過してしまった。集合意識の封印を解き放ち、「生」の中に内包される事象として、ごくあたりまえのひと場面だと再認識している。悟りの境地、というように高尚に捉えたがる人もいるけれど、実は動物的な感覚。

人間脳で捉えなければ死は自然の流れのひとこま。

だからなおさら、この物語が響かない。

確かに愛おしき存在に、この手で触れることができなくなる不可逆性は、指先や手のひらに残る過去の細胞記憶を引き出すことで、少し胸を締めつける。その肉体がこの世から消滅しているのならば、似たような触感を求めて彷徨う行為は自虐的にもなり得る。

愛猫が肉体を残して旅立ったとき、体温が少しずつ下がって、肉と毛からすべての生命エネルギーが抜けた後の抜け殻を埋葬するために運んだ。静かな塊だった。彼のあたたかい温度を手や身体で感じることはもうできない。

では今触れられるもの、味わえるものはなに?

そこに視点と思考が移動すると、やっと過去に囚われたヒトは開放への出口に向かう。意識が多少でも切り替わることで拭い去ることが不可能にさえ感じられた悲しみが、少しづつ小さくなっていく。

食べ物や飲み物が喉を通っても味わえない。目が覚めると物質世界に戻ってきたことを嘆く。そんな日々を過ごすこともあるかもしれない。直接に死とつながった出来事ではなかったけれど、私自身、そんな時期を体感したことがある。

国際基督教大学で心理カウンセラーの授業を担当していた教授が言っていた。カウンセリングの最中に居眠りできるくらいの「同調しない能力」が必要。それくらいがちょうどいい。「死」を重く捉えている人々と関わる時には、側にいるペットみたいな感じで存在するくらいがちょうどいい。

星の王子さま、やっぱり何度みても絵が下手。下手とか上手いとか技術的なことと共振力は相関しない。そういうことだよね。

人の世のカラクリを改めて認知させてくれた絵本。
快楽よりも不快を感じる場所に学びはいつも転がっている。

そんなことを感じた秋の夜長でした。

おやすみなさい。

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