ダニエルクレイグのジェームズボンド
いよいよ2021年10月1日から『007/ノー・タイム・トゥー・ダイ』が日本で公開される。
スクリーンに映る007の紳士哲学が変わったのは、6代目ジェームスボンドを演じるダニエルクレイグからではないか。
ジェームスボンド。
コードネームは007。
殺しのライセンスを持つイギリスの諜報部員。
おそらく、ボンドを知らない人はいないだろう。
だが、イアンフレミングの原作小説で描かれているボンドを知らない人は少なくない。
原作小説に描かれているボンドは、全戦全勝の英雄ではない。
尿酸値過多、肝疾患、リウマチ、高血圧、頭痛などを患っており、医者から「長生きできない」と忠告されている。
また紅茶嫌いで「あんな泥水を飲んでいるから大英帝国が衰退した」と言い切る。
女にだまされ、あるいは敵の罠にはまり、格闘にしても必死で殴り合い、ときには打ちのめされて地に這いつくばる。
任務をなしとげることに真剣に向き合い、最後には紙一重のところで生き延びる。
上司の査定にびくつき、金には困窮して、転職をいつも考えている。
「そんなやつは、ボンドじゃない」
そうだ、映画のなかのジェームスボンド。
美女に囲まれ、高級なホテルに宿泊し、アストンマーチンに代表される都会的なスポーツカーを乗りこなし、たとえ敵の罠に囚われたとしても、自信に満ちた表情で華麗な脱出に成功し、何10人と格闘しても、圧倒的な体力と知力で敵を倒す。
そのイメージを決定づけたのは、初代ボンドのショーンコネリーだった。
第一作『007ドクター・ノウ』(1962年)でヘンリープールのオーダースーツを身にまとい颯爽と登場したコネリー・ボンドは、第二作『007ロシアより愛をこめて』第三作『ゴールドフィンガー』第四作『サンダーボール作戦』のスクリーンで、決して負けないタフガイとして活躍した。
第五作『007は二度死ぬ』の舞台は日本で、丹波哲郎とコンビを組んだ。
日本中が熱狂したのを覚えている。
時代は東西冷戦下で、西欧を代表する諜報部員ジェームスボンドが、秘密組織の世界的陰謀を阻止し、ついには秘密基地を破壊して脱出するストーリーは、アメリカを代表する西欧各国のファンを獲得した。
映画シリーズの大ヒットをうけて、亜流のスパイ映画や、TVドラマ、コミック、小説が世界中に氾濫した。
スマートなプレイボーイが美女をはべらせ、超人的な活躍で絶対悪と戦う。
その設定は、コネリー・ボンドが世界に普及させた大人のファンタジーである。
二代目ボンドのジョージレーゼンビーは、はずれクジを引いた007だ。
第六作『女王陛下の007』(1969年)では原作小説に近いボンドの路線を踏襲しようとした。
映画のなかで結婚したレーゼンビー・ボンドは、新婚旅行を狙撃され、新妻を射殺されてしまう。
それはフレミングの原作小説がボンドに付した、孤高のスパイの哀愁なのだが、あまりにもみっともない007の姿に、世界中のファンから酷評された。
コネリー・ボンドが復活する。
第七作『ダイヤモンドは永遠に』(1971年)でボンドは、再び超人的な能力を持ったプレイボーイとして描かれる。
三代目ボンドのロジャームーアは、コネリーの路線を引き継ぎ、第八作『死ぬのは奴らだ』(1973年)でスクリーンに登場した。
洗練された二枚目で、所作がエレガントで、スコットランドなまりのあったコネリーよりも、流暢なロンドン英語を話す。
ムーア・ボンドはコネリー・ボンドに匹敵する人気を獲得した。
第十四作『007美しき獲物たち』(1985年)までの七作で、大人のファンタジーとしてのボンドを演じた。
ムーアが撮影の合間に新聞を読んでいる写真が報道されたことがある。
背中を丸め、老眼鏡をかけたその姿は、老いたジェームスボンドを彷彿とさせると、酷評された。
世界中のファンが、ボンドに求めていたものを象徴するようなエピソードである。
四代目ボンドは、原作を踏襲しようとした。ティモシーダルトンである。
第十五作『007リビング・デイライツ』(1987年)では、どこかに影のあるニヒリストのボンドがスクリーンに登場した。
プレイボーイではなく、冷徹だが、友情のためなら感情的になって復習を遂げようとする。
第十六作『消されたライセンス』(1989年)では、相手に殴られ、鼻血を流す。
上司からクビを言い渡され、それでも戦い、無残にも敵に圧倒されながらも活路を切り開こうとするボンドは、原作小説を再現している。
1989年といえば、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終結した年だった。
もう仮想敵国である東欧を絶対悪とみなして、西欧の諜報部員が超人的な活躍で敵を打倒するという、凡庸なマンネリストーリーは変容しなければならない時代になっていた。
ダルトン・ボンドの試みはしかし受け入れられなかった。
たった二作での降板だった。
第十七作『007ゴールデンアイ』で、五代目ボンドになったのは、ピアーズブロスナンだった。
コネリー・ボンド、ムーア・ボンドを踏襲した。
ブロスナン・ボンドはしかし迷走する007だった。
第二十作『007ダイ・アナザー・デイ』まで、一作ごとに監督が替わっている。
興行的にはヒットしている。冷戦後の世界観も映し出している。
しかし、超人的な二枚目が、美女に囲まれながら、絶対悪と戦い必ず勝つというストーリーでは007の世界を描くには限界があった。
そういう時代になっていたのである。
そして六代目ボンドが登場する。ダニエルクレイグだ。
第二十一作『007カジノロワイヤル』には、科学秘密兵器は登場しない。
ドライマティーニにジギタリス系の毒薬をしこまれ、飲み干したクレイグ・ボンドは死にかける。
愛する女性を救出に向かったところで、敵の罠に囚われ、睾丸を殴打される拷問を受ける。
ボロボロになりながら任務を遂行し、救い出した女性との将来を夢見て、辞職を願い出る。
だが、その愛する女性こそが……。
ボンドの夢はついえて、再び007としての任務に復帰する。
この『カジノロワイヤル』こそが、イアンフレミングが執筆した007シリーズの小説第一作なのだ。
だからダニエルクレイグは、ボンドが007に就任するまでの誕生エピソードを演じている。
そしてクレイグ・ボンドは、原作に忠実でありながら、初めて成功した007なのである。
第二十二作『慰めの報酬』では、スーツを泥にまみれさせながら脱出路を探すボンドの姿があった。
第二十三作『007スカイフォール』では、上司に裏切られながらも死の淵から、任務に戻るボンドの姿があった。
戦いには、勝利が絶対に必要なのではない。
クレイグ・ボンドの戦いは、勝つことをめざしていない。
戦いを切り抜けることに、命をかけているのだ。
ボロボロに汚れながら、ボンドは切り抜ける。
切り抜けたあとの静寂のときに、ボンドはスーツのネクタイの結び目をキュッと正し、シャツの袖口を正し、野生に燃える男から、尊厳あるイギリス紳士に戻る。
余裕しゃくしゃくとはしていない。
むき出しの人間性がダニエルクレイグのボンドにはある。
哀愁、脆弱、傲慢、挺身、そして尊厳。
決して大人のファンタジーでは済まされない、ボンドの日常にひそむ非日常の戦い。
それを他人は冒険と呼ぶのだろう。
戦いに向かわざるを得ないジェームスボンド。
決してボンド自身が望んだのではない戦いだとしても。
勝利だけが、戦うことの意味ではない。
だが切り抜けられなければ、戦いに挑むべきではない。
勝利に歓喜している暇はない。
すぐに次の挑戦が目の前に現れるからだ。
挑み続ける。勝利が約束されていない戦いに立ち向かう。
ダニエルクレイグの007は、ジェームスボンドの紳士道をこそ演じているの
だ。
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