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時間は、車から眺める景色に似ている

2014年の夏、東北で行われていた「ただようまなびや 文学の学校」に参加した。いろんなプログラムが組まれていて、その中で各々が興味のある会に参加できるようになっていた。

プログラムのひとつに、書家の華雪さんと詩人の吉増剛造さんとの会があった。その会は、10m×5mくらいの大きさの白いの紙に、参加者それぞれが墨と筆で「手」という字を書いていくというワークショップだった。新聞紙の上で少し練習をしてから、好きなタイミングで次々「手」という文字を書いていった。

華雪さんも書いていた。彼女の書く姿は美しかった。白い紙の上でたわめく身体に見とれた。踊るように書いた先に残ったのは黒々とした文字だった。「書」というものは、紙に書かれた墨を手掛かりに、その上の空間を見るものだと知った。書かれた時間や空間の膨らみ、「書」や「絵」をそういう風に眺めるものだと知ったのはそのときがはじめてだった。

皆が字を書き終わったあと、吉増さんがひとつひとつの「手」について、熱を持って眺め色んなことを聞いていった。たいしたことではない。「大きな腕だなあ」とか「小さくてかわいい。どうしてこれを?」というようなこと。白い紙の上にはみんな違った「手」があった。90分のプログラムの時間は大幅に過ぎていた。

プログラムが終わって、へとへとになって建物の外に出た。左右に街路樹が並んでいて、道の石畳の上に座り込んで木々を見ていた。夏真っ盛り、沢山の葉が青々として風に揺れていた。みんなが書いた「手」が全部違うように、この葉っぱたちも似ているようで、すべて違うものであることに気がついた。

この木々が大きくなるまでに、どこかで種が蒔かれ、茎が成長し、葉を茂らせ、秋になるとすべて落ち葉になる姿が見えるようだった。「書」を見ると書いた人の動きが見えるように、その木のすべての時間が「今」の中にあった。

そこで一途くんと出会った。
一途くんも吉増さんと華雪さんの会を受講していて、二人で美味しい串カツ屋に入った。
そのとき何故だか時間の話になった。

確か一途くんは「時間は死へ向かっていくもの」ということを言った。(気がする。間違ってたらごめん)

私の口から出た言葉は「時間は流れていない」ということだった。

時間は、車から眺める景色に似ている。
車窓から見える景色は後ろへ後ろへ流れていく。けれど、動いているのは景色ではない、私たちだ。

同じように時間も、時間が流れているわけではなく、私たちが動き続けている。水分が抜けていく過程みたいな感じもする。でも石には水分がないから、時間なんて関係ない。私たちの車と、彼らの車は全然違うものだ。

瑞々しかった新芽が大きくなり、その後水分を失って枯れていくように。人も水分をたくさん含んで産まれて、死ぬころにはカラカラになって死ぬ。

産まれてから死んでいくその過程は、同じ空間の同じ時間の中にあるんだとぼんやり思っている。

動いているのは、私たちなんだよ。

そんな風に、あのころも、今も確信している。

時間は、便利だ。
待ち合わせもできる。計画も立てられる。見通しが立つような気になる。時間がコントロールできる気がする。

でも、そんなの嘘だろって思う。

いつかの私は常に今の私と共にあり、それは過去も未来も関係がない。
でも数年前の私も、数年後の私も、まったくの他人である。

この矛盾は私をとてつもなく楽しい気持ちにさせる。
あっているか、あっていないか、なんてことに関心はない。
それを信じていることが重要なだけだ。

そんなことを最近よく思い出している。なぜだか知らないけれど。

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