ダルちゃん、そして私の中のマイガール達
ダルちゃんを読んだ。掛け値なしに素晴らしい漫画だと思う。
(第1話はこちらから読めます)
どうしてこんな漫画ができただろうと著者のはるな檸檬さんのインタビューも読んだ。
「これは私の物語だ」と思う女性がきっと何人も何人もいるだろう。私もその一人だ。
なぜこうも心を打たれるのか。こんなに簡潔に綺麗に葛藤を表した漫画を私は他に知らない。
読みながら東京にいるときに付き合っていた彼氏のことを思い出していた。彼もとてもいい男だった。優しくて他者への想像力とユーモアがあった。別れるときだって、彼のことが嫌いになったわけではなくてずるずると引き延ばしてしまった。
彼に、私は詩を書いていることを言えなかった。彼にというか、ほとんどすべての人に言えなかった。しかし、あの時代、確実に詩は私を支えていた。
別れる間際、ブログを読んでもらった。
「すごいね。みきさんじゃないみたい」
と言われた。そうか、見せたって良かったんだなとそのときやっとわかったけれど、もう彼との日々は思い描けなくなっていた。
詩を書くとか、東京で働いていたとか、重なる部分があるからこんなにも胸を打たれるんだろうかと自問自答した。でもきっとそれだけではない。
ダルちゃんがラブホテルで泣いているシーン、私はそれを知っていると思った。嫌な男に飲み会で侮辱されているときも、周りの人の愚痴に付き合うところも、サトウさんに詩集を借りるシーンも。自身には身に覚えがないのに、でも「知っている」と強く思った。
もしかすると、私の中には私ではない別のガール達がたくさん住んでいるのではなかろうか。それぞれ笑ったり、泣いたり、はしゃいだり、嘘ついたりしながら、私のあずかり知らないところで、いろんなマイガール達が生きているんじゃないか。
今、私として表出している私は、ほんの一部の氷山の一角でしかなくて、その下には見たこともないマイガール達がいるのかもしれない。その彼女らがダルちゃんを読んでこぞって泣いたり、喜んだりしているような気がした。
自身が女性であるということを憎んでいた時期があった。
出世できない、力で敵わない、家事をしないといけない、欲望の目にさらされないといけない、階段でスカートを気にしないといけない、おしとやかにしなくてはいけない、笑っていなくてはいけないetc.etc...。そういったものがすべていやで、サラシで胸をつぶしていたこともあった。
そんな思春期に見ないふりをしていたマイガール達。今、28歳になってやっと受け入れつつある女性ということ。そんな事柄が大きく噴出して沢山沢山泣いた。
「普通の人なんて この世に一人もいないんだよ ただの一人も いないんだよ 存在しないまぼろしを 幸福の鍵だなんて思ってはいけないよ」
ずっとそう思っていた。そんな言葉をこれだけストレート豪速球で投げてくる。
「私を幸せにするのは 私しかいないの」
はるな檸檬さんの中にも沢山のガール達が住んでいるのではないだろか。私と同じように、そしてあなたと同じように。そのうちの一人がダルちゃんだったんじゃないか。
ダルちゃんの生活を見ることができて、私は幸せでした。
すべての女の子よ(そして男の子も)、幸せにあれ。
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