ーCreator's Interview ー 古後公隆さん (作曲家・編曲家・ピアニスト・チェリスト)
音大の作曲科が舞台となっている映画「ミュジコフィリア」の音楽を手掛けられた古後公隆さん。「ミュジコフィリア」の音楽制作秘話をはじめ、古後さんがこれまでどのように音楽と向き合ってこられたのか、日頃どんなことを念頭に置いて作品づくりに取り組んでおられるのか、お話を伺いました。
(インタビュー・文:大津美紀)
【第1回】音楽家の母親の影響で幼少期から始まった音楽人生
【第2回】リスナーが想像力を発揮できるような曲作り
【第3回】映画「ミュジコフィリア」について
【第4回】これから挑戦してみたいことは、実は…
【古後公隆プロフィール】
1976年11月13日京都府宇治市生まれ。4歳よりピアノ、5歳より作曲を始める。
1994年、京都市立芸術大学音楽学部作曲専修に入学。1997年、同大学中途退学。
2000年より、テレビCM、ゲーム音楽、プロジェクションマッピング、ミュージカルなど各方面に楽曲を提供。2011年代以降はサイレント映画の伴奏者としても活動しており、チャップリン、ヒッチコックら20世紀初頭の歴史的監督作品の修復版世界初公開・日本初公開など数々のワールドプレミア・ジャパンプレミアに携わる。サイレント映画に声優がライブで声を当てるイベント「声優口演」では、2012年以降、羽佐間道夫、野沢雅子、山寺宏一その他多くの人気声優とたびたび共演し話題となる。
京都造形芸術大学(現京都芸術大学)講師(2008年~2012年)
大阪音楽大学短期大学部講師(2020年~)
大阪音楽大学・講師(2021年~)
【第1回】音楽家の母親の影響で幼少期から始まった音楽人生
<大津> 今日はお時間をとってくださりありがとうございます。宜しくお願いします。
<古後> 宜しくお願いします。
<大津> まず古後さんはこれまでどんな風に音楽に向きあってこられたのかをお聞きしたいなと思ったのですが、音楽を始められたきっかけは何かあったのですか?
<古後> 母がヴァイオリンとピアノの先生だったので、物心つく前から自分の意志とは関係なく音楽教育を受けていたんです。ピアノも最初は母から教わっていましたし、母の勧めで5歳くらいから作曲も始めました。
<大津> 親が子供に教える、となると、教えるほうも教わるほうも大変な時期、というのがあったのではないでしょうか・笑?
<古後> そうですね。小学生の頃になるとだんだんと親に反抗し始めるようになってきて、別のピアノの先生がレッスンに来てくれるようになりました・笑。
<大津> そうなりますよねぇ・笑。でもレッスン自体は楽しんでおられたんですか?
<古後> 演奏すること自体は好きだったんですが、とにかく楽譜どおりに演奏する、というのが苦痛でした・笑。ブルグミュラーやツェルニーなどひととおりの楽曲を経て、ショパンくらいまでは弾けるようになったんですが、当時から、既成の楽曲を演奏する、というよりも、ただただ自由に即興で演奏するのが楽しくてしかたなかったんですよ・笑。
<大津> では、今でも古後さんの音楽スタイルの中心にある即興演奏というのも、特に「やろう!」と思って始めらたわけではなくて、子供の頃から自由に演奏しているうちに、だんだんと身についていかれたような感じなんですね?
<古後> そうかもしれませんね。たとえば、学校の友達が放課後に、教壇を使って「今日クラスで起きたニュース」を読んだりしている横で、僕は勝手にオルガンで「ジャジャーン♪」とジングルをつけたり、BGMをつけたりしてたんです。そういう時間がとても楽しかったんですよ・笑。
<大津> 確かに教室にオルガンってありましたよね・笑。私、足踏みオルガンの音色が大好きでした。そのように古後さんは、子供の頃から音楽をつくったり演奏したりすることの楽しさを感じてこられたということですが、チェロはいつから始められたんですか?
<古後> チェロは、中学生の時に始めました。オーケストラクラブがある中学校に通っていて。
<大津> そこで、いきなりチェロを弾けちゃたんですか!?
<古後> 先輩から教えてもらったというのもありますが、そのオーケストラクラブでは結構な大曲を演奏することが多かったんですよね。そうなると人員も必要なので、初心者でも演奏の舞台に駆り出されることも多くて・笑。
<大津> なるほど。そうなったらもうやるしかない状況ですよね・笑。
<古後> ええ・笑。あとは、単にチェロに向いていた、というのもあるかもしれないです。
<大津> でも、弦楽器って綺麗な音を出すのも音程を取るのも簡単じゃないですよね。きっと古後さんがそれまで培ってきた音楽的センスがチェロでも遺憾なく発揮されたんでしょうね。ちなみに、当時はクラシック音楽以外にはあまり興味はなかったんですか?
<古後> 高校に入ってからも、引き続きクラシックの演奏や編曲などもしていたんですが、ある時ビジュアル系バンドに誘われて、がっつりメイクをしてチェロを弾いたりしていたこともありました・笑。当時はクラシック以外にも、ロックやプログレなど、いろいろな音楽を聴いてましたね。
<大津> 「ビジュアル系チェリスト」ってかっこいいですね・笑。でも好きなことや興味があることをどんどん取り入れたり、挑戦してみたり、そういう時間や経験って、若い時代には特に大切だと私自身は感じます。結局は「好き」や「楽しい」以外のモチベーションってないですものね。
<古後> そうかもしれませんね。
<大津> その後京都市立芸術大学音楽学部作曲専修へと進学されたということですが、学校生活はいかがでしたか?
<古後> 僕の学校の音楽学科は60人くらいで、でも、そのうち作曲専攻は3人だけだったんですよ!だから、授業もほぼマンツーマンみたいな感じで・笑。
<大津> 3人ですか・笑。ちょっとさみしいような気もしますが、でも1年で退学をされたと。
<古後> そうなんです。僕は早く仕事がしたいという気持ちが大きかったのと、なんとなくアカデミックな教育の場に窮屈さのようなものを感じてしまったんです。