見出し画像

『ファミリーヒストリー 寡黙だった父 堤真一』

NHK『ファミリーヒストリー 寡黙だった父 堤真一』

2021年10月25日に放映された「堤真一~寡黙だった父 家族への思い~」は父親と息子の関係を示唆する回で、話題になった。私も録画したこの回を折に触れて見るのだが、涙なしには見ることができない。

俳優、堤真一は49歳で結婚、父親になったことで自分のルーツに興味を持ったという。

祖父は熊本県出身の警察官で住民に慕われていた。大正13年生まれの父、静雄は小さい頃から読書好きで担任から東大進学を薦められるほどでの秀才だった。本人も外交官志望だったが、当時の警察官の給与では大学進学は適わない。陸軍特別幹部候補生の募集を知った静雄は陸軍航空整備学校に入校する。訓練は非常に厳しかった。

戦後、神戸製鋼所に入社。そこでの仕事は溶接棒を木箱に詰め、釘を打ち、その重い木箱を運搬する肉体労働だった。後輩だった人は述懐する。

「堤さんは寡黙で真面目でとにかく我慢強い人でした。わたしらなんか、隙あればサボろうと考えてましたが、静雄さんは陰日なたなく文句も言わんと働くんです。なんであんなに働けるんだろうと思いましたね」

仕事の傍ら、兵庫県立武庫高等学校定時制に通い、24歳で卒業。結婚後、西宮市の団地に入居し、一男一女に恵まれる。向学心溢れる静雄は政治、経済、歴史、哲学など様々な書物を耽読する。本棚にぎっしりと詰まった本の中には『刑法概論』『日本歴史全集』に混じって『スターリン全集』『マルクス伝』などの背表紙も見える。

仕事はその誠実さが買われて班長になった。一風変わった班長で、叱責することはせず、話をよく聞き、皆に慕われた。

広島に新たな工場を作るということで静雄に打診があったが、警察官だった父の転勤で友人と別れなければならないというつらい経験があったので、家族のために栄転を断った。真一はそのことも知らなかった。

真一は父親が家で口を開いたことがほとんどなかったと言う。「寒い」というと「冬は寒い」と一言。「暑い」というと「夏は暑い」と言うだけ。ほとんど会話はなかった。そのことで父と息子は徐々に溝が大きくなっていく。

ある日、ずっと野球を続けていた真一は部の理不尽な方針に納得がいかず退部し不登校になる。目標を失った彼は高校を中退すると静雄に言う。

「俺はあんたみたいなサラリーマンにはなりたくないんだ」と父親に反発していた真一が言うと、静雄は「サラリーマンの苦しみがわからない人間は何をやっても一緒や」。

その言葉に真一は、負けたと思った。その通りだと思い、中退を思いとどまった。

やがて静雄は体の不調を訴える。それでも一言も痛いとは口にしなかった。高校を卒業した真一は京都にあるJAC(ジャパン・アクション・クラブ)に入り、特別選抜として上京することになった。その報告のために友人の車に乗せてもらい、病室を訪れた。静雄は既に肺癌で余命三か月だったが本人には告知していなかった。

病室に入って10分ほど経ったときのことだった。「どうやって来た」と問う静雄に友だちの車に乗せてもらってきた、と言うと、「駐車切符を切られるから帰れ」。

まだ何にも話してないのになと、それでも帰ろうとすると、声を振り絞って「真一!」と叫ぶ。続けて「元気でな!」

「この人は自分がもうすぐ死ぬことを知っているんだ、もうこの人と二度と会うことはないんだ」

真一は振り返らずに病室を出て号泣した。

静雄は一か月後に60歳で亡くなる。真一は後悔する。「父に反感だけ抱いていたことが非常に申し訳なかった。父親が亡くなってみて自分の父親に対する気持ちは間違っていた」

静雄は小さい頃からの向学心を持ち続けていた。51歳で近畿大学の通信教育に入学した。入学志望動機には税理士受験のためと記されていた。通信教育なので自宅でレポートを提出すればいいのだが、実際に講義を受けることで多くの単位を取得していた。大学に対する強い憧れがあったのでしょうと大学職員は言う。

静雄の死後、写真が出てきた。それは入居予定の建設中の団地の全景から始まり、真一が生まれる前日も団地を写していた。毎年の誕生日、入学式や卒業式など膨大な枚数の家族の写真が残されていた。静雄にとってはやっと手にした大切な城であり、家族であった。

このことを知った真一は胸がいっぱいになり言葉を振り絞るように言う。

「無口だから…なんかずっと愛されていないって思ってたんで、なんかずっと俺のこと嫌いなんだろうなって、生意気だったし、それが…(涙を流し、長い間、言葉に詰まる)

本当にバカですね」

父親のことを知らなかったら、一生誤解したままだっただろう。私がそうだったように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?